青穂42号よりお知らせなど転載。
上:代表のならどっとFM出演記事
下:同人新刊案内
「自由律俳句集 ふりむいたねこ」 吉多紀彦(喜怒哀楽書房)
(文:久坂夕爾)
ちょっとした昔話です。
高校生の頃、好意をもっている女の子がいたのですが(付き合うまでには至らず)、その子にある日、こんなことを言ったのを覚えています。
「そんな人だとは思わなかった」と。
すると、その子はこう切り返してきたのです。
「それはあなたが勝手に私をイメージしていただけのことでしょう」と。
彼女の発言をどう感じたのかは覚えていませんが、まだ高校生ですからねえ、当時の私はきっとショックだったのでしょう。今でも覚えているくらいですから。
彼女が倫理的に正しくないことをした、とか、そういうことではなかったと思います。完全に私の、彼女はそういう言動をしないだろう、という思い込みから来た発言で、思い込みであると気が付いたのも、もっと後になってから。もっといえば、「そういう言動をするかしないか」という私の判断基準を、一般的な倫理基準のように扱う、という二重の意味で恥ずかしいことを私はしていたわけです。
つまり、徹底的に彼女の発言のほうが正しいわけで。私の発言はもう、どうしようもないものですが。
ただ、その「どうしようもなさ」は結構多くの人にあるもののように思うのです。どうしようもないものを、裁くでもなく嘆くでもなく(それは「社会性」を「人間の現実」より上位のこととして観てしまうことに繋がるのではないかと。娯楽系の作品にはありがちですが。「いい人なんだけど〇〇〇」のような物言いも、この2つを同じ土俵で見てしまっているように思えて好きではありません。社会生活を営む上での規範と、人間性、とを順位づけて考えてはいけないでしょうね。)、ただ見続けること。
そんなことを思い出したのは、最近、こういう小説を読んだからでしょうか。
吉村萬壱「死者にこそふさわしいその場所」
帯にはこうあります。
折口山に暮らすのは……
・セックスの回数を記録する愛人
・徘徊癖のある妻を介護する老人
・アパートのドアが開きっぱなしの裸男
・朝どうしても起きられなくなってしまった女
・困った人の面倒を見たがる聖職者
どうしようもない人たちね
(文:久坂夕爾)
樽見博著「自由律俳句と詩人の俳句」(文芸通信)より、印象に残った部分を抜粋しておきます。
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ただ、放浪漂泊といっても、放哉は死に場所を見つけるべくあてどない放浪を強いられたのに対し、山頭火は放浪そのものを求めたというか、甘えの極致に近く楽しんでいる風がある。その差は果てしなく大きいだろう。
放哉の表現は、もっぱら自己を掘り下げようとするものであり、(略)それに対して山頭火は、(略)むしろ、自己に沈潜するよりも、自己を他者に向かって開こうとしている。
※「俳句」第44巻7号 坪内稔典「山頭火俳句の特色ー自己を開くリズム」引用部分
このこと(※注)は自由律俳句の成長途上の一つの屈折であり、井泉水の印象主義的象徴主義運動が東洋的な心境主義的主観主義とでも言うべきものに向かう屈折でもあった。「詩」の圏内に入りかけた自由律俳句が(二行詩という名まで進んだ俳句が)又、俳句それ自身の世界を「詩」の世界と区別し始めたのであった。
※伊澤元美著「現代俳句の流れ」(昭和31年河出新書)引用部分
※注 俳句を二行詩と捉え『国民詩』とする荻原井泉水の構想が頓挫したこと(久坂が本文前段より要約)
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放哉と山頭火の違いは、私自身が何となく感じていたことを裏付けしてくれるような解釈でした。また、ゲーテに影響をうけたはずの井泉水の「層雲」が、なぜ放哉・山頭火に代表される主観主義的な流れを生んだのだろうか、何かきっかけがあったのだろうか、という、私の以前からの疑問への一つの回答例があったこと、面白く読みました。
そのほか印象に残った記事は、松尾あつゆき、大橋裸木、中塚一碧楼、横山林二、ルビ俳句のこと、詩人の作る俳句が意外にオーソドックスなものが多いことなど。
最後に、もう少しだけ引用。筆者によるまえがきより。
俳句という文学行為は「俳句とは何か」と問い続けるもので、その正解のない解答を得るために、個々が様々な試行を繰り返す必要がある。(略)俳句に関わる者は、五七五定型、季語、切れ字の効用に凭れかかることなく、考え続けなくてはいけない。自由律俳人たちの懸命な足跡はその意味を教えてくれるのである。
自由律俳句は、もともと文学志向の強い俳句形式だったわけです。
(文:久坂夕爾)
頭にそそぐ空美しい機械となり
声小さき標本の一尾を海へはなつ
鹿点るてっぺん華麗な禁漁区
未明の杉少女指よりインキ流し
砂うごく月の柩を埋めるため
雲の市場卵売り卵降らせ
鏡の底の詩人と話す少女の首
背と背の朝鳥類の風とおす
首しまる兎に長い風林
旅行記に未婚の鳥をさがす女
吹奏楽顎紐の雪に消える兵士ら
雪を背に走れば走れば髭愛し
弟の暗い肩まで楽器沈む
月のぐるり四つ脚で走れガラスの男
靴の先美し教師ら時計嗅ぎ
掘りすすむ雪のなかまで夕日の犬
肺を嗅ぐ汽船のような白夜過ごし
ガラス玉の光線は黄なり母の背よ
蛇をころし庭掘るまぶしい他人の足
咳ひろがる葦間の太陽滑車にのせ
音楽の木立ならべる円い草原
くら闇に裸木ながし膝まで水
函のなかに風の記号の甲虫
雪虫殖やし僧ら敗走す月の村
肺のなかに枯草の点り母とびたつ
神々の額ぞ白し村境
水銀降る森の外れの料理番
風が消え村が消え一月の細身の鴉
風の国の夜行鳥獣発熱せり
からだじゅうの暗がり探せば流るる水
濃霧警報日本海で顔洗う
家木松郎略歴
(戦後俳句作家シリーズ32 家木松郎句集/海程戦後俳句の会 より抜粋)
明治28年生まれ
昭和25年 「層雲」同人
昭和36年 句集「発熱」
昭和40年 「海程」同人
昭和46年 句集「前景」
昭和52年 家木松郎句集(戦後俳句作家シリーズ32)
状況を描くのではなく、状況の核を描くことで、ときに繊細でときに清冽な絵画のような印象を与えます。
未明の杉少女指よりインキ流し
鏡の底の詩人と話す少女の首
未明の暗闇に浮かぶインキのような杉が、まさに少女の指から流れ出す様子。
鏡の底にいる(実体のない)「詩人」と話す少女。「顔」ではなく「首」としたリアルな実体観との対比。
もっとも絵画的な印象を持った句です。
背と背の朝鳥類の風とおす
背と背、という限定的な光景が、「鳥類」ということばで一気に拡がるすがすがしさがあります。
声小さき標本の一尾を海へはなつ
青穂41号が発行されました
画像は、上から表紙(戸田勝画)、色紙(吉岡禅寺洞)、青穂抄(久光良一選)
ことばというのは、どうしても「日々、もしくは、その場その場で消費されるもの」という側面を持っていて(むしろこちらの側面のほうが大きいのですけれど。古代においてはまた違ったのではないか、なあんて想像すると素人ながらちょっと楽しいです。)、これに対する疑問やとまどいを表明する詩歌も少なからずあります。
コミュニケーションや社会への合目的性をはなれ、「ことば」そのものについて書かれた有名な詩にこういうものがありました。
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか
あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ
あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう
あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりでかえってくる
田村隆一「帰途」
ある小説家が、「言葉なんか読みたくない時期がある」とどこかで書いていて、私とは多分「読みたくない理由」は違うでしょうが、私にもそういう時期があると共感したことがあります。美術館で絵を見ていた時、ここに言葉がなくてとてもほっとした、また、言葉を使わない絵画というジャンルが(創作者として)とてもうらやましい、と思ったことが何度かあります。
不純物だらけ・イメージの固着化(俳句の季語というのは良くも悪くもそれを利用したもののように思えます)ということばの性質を「前提として存在する」と考えている方とそうでない方の考え方や作品には当然違いがでてくると思っています。そういうものでもあり、深刻な問題でもあり。
自分の書いている文章も詩句も、特に観念的な言い回しをしなければならない場合、本当に私が感じたことなのか、乖離していないか、心配になることがありますね。
(文:久坂夕爾)
身近過ぎて難しい。ステレオタイプになりやすい、甘くなりやすい
少年・少女・男・女・親・子・孫
という題材で、最新の「青穂」から無作為に作品をひろってみました。
春に亡き子の影はなし おおひさ悦子
同じ作者には、私が好きな句「十二年も同じ顔の子を見て飽きない」があります。
今回は『不在』(観念)を表現していますが、「十二年~」の句は『在』(行為)を表現しており、逆に作者の(子の不在を思う)情動がありありと見えてくる様に個人的には思えるのです。ここを読んでいる方々はどう感じるでしょうか。
バス停に立っているまだ母の顔 鈴木しのぶ
男湯と女湯だけの暖簾が揺れる 楽遊原
頬被りの女人形焼きを売る 伊藤風々
おとぎ話丸めながら親子の毛糸玉 いまきいれ尚夫
わきまえない女たちに日脚伸びている 平山礼子
少女るり蝶さがす青春のうなり ゆきいちご
象の祖母象の母象のわたしアカシアの花のした 久坂夕爾
女子高生のラブレターきて水男子湧く 奥野立日十
女の体を淡く浮かせて狼となる 久次縮酔
夜が怖くて起きてきた子 伊坂恵美子
胸の底貴女の影がかしこまる 秋生ゆき
女に生まれたくなかったの鏡に春寒し 小山幸子
私の鼓動この子の鼓動合わさる布団の中 ちばつゆこ
振鈴朗朗と七五三への思いの新たなる 小池ますみ
コロナ禍で安否気遣う遠方の息子 渡辺敬子
朝焼けの消えぬまに息子の弁当盛付けて 加藤武
自らを語らず青年そこはかとわらう 幾代良枝
ランドセルにジャンパー着せて三寒四温 河野初恵
激昂する男の夢で覚めたがまた寝る 小山貴子
子と孫は遠く離れて独居の薬の数 渡辺敏正
蟹座のおばあちゃんはたぶんお人好し 南家歌也子
公園や孫の手を引き今引かる 高橋恒良
道すがら満月指して尋ねる児 西川大布団
(文:久坂夕爾)
これはまあ、笑い話のようなものなのですが。
昔、東京の専門学校に入学するために上京したての頃、英会話教材のセールスに引っかかりそうになったことがありました。
都心のあるビルに赴いて、10歳くらい上の、妙に押しの強いというか、、そういうお姉さんに「これからは英語の時代」「英語を身に着けなければ仕事でやっていけない」みたいなことを言われて。今思えば、こちらの音楽の趣味を聞き出して話を合わせるなど話術がうまかった。
何度も手を差し出されて握手を求められ(多分これが契約合意の印)、なにか腑に落ちない私は手を出さず。結局、確か「考えておきます」というようなことを言って席を立った覚えがあります。
もうひとつ。
企業の防犯カメラ設置の仕事のとき。店舗に防犯カメラを取り付け、離れた本部でそれを見たり、逐次保存して(万引きなどの)事件の際警察に提供したりする仕組みなのですが、静止画ではなく、音声付きの動画になぜできないのかとしつこくお客様に言われたことがありました。
インターネットというのはいわば道路のようなものですので、確実に渋滞します(つまり別の作業ができなくなる)。渋滞を避けるためには専用のバイパスを通す、というような甚大なコストが必要になります。また、動画というのは、静止画を乗用車とすると4tトラックが何台も連なるような大きなものですので、それを置いておく駐車場(記憶領域=機械)が必要になります。たしか、そんなようなことを言ってあきらめてもらったような気がします。※当時のコストを考えてのことです。現在でしたらわかりません。
ネットにはこんなに動画があふれているのに?と思う方もいるでしょうが、動画を保存している会社は、やはりそれだけのコストをかけているものです。
個人や団体にとって必要かそうでないか、それにどれだけ(人的金銭的)資源を割けるのか考えずに、ただ「英語の時代」やら「ネットの時代」やらと、「世間の受け売り」で言われても困りますよね。英語教材を売りつけるセールスの考え方とあまり変わらないんじゃないかと思ってしまうわけです(笑)
電子書籍、コンビニのATM、電子マネー決済、オンラインゲーム。インターネットの恩恵はすさまじいものがあります。
ただ、ATMなどは誰でも操作できるでしょうが、電子書籍を読むためには、パソコンやタブレットもしくは専用端末が必要で、操作も若干慣れが必要です。
私はコンピュータ関連の仕事(たとえば、上にあげたATMの機械内部のプログラムの作成などが一番近いかも)をしていますが、「ネットの時代」だからパソコンを買おうとかインターネットをすべき、などとは言えません。むしろ家庭からパソコンは消えていくのではないか、スマホ(携帯電話)・テレビなどの家電にとってかわるのではないか、と思っているクチです。
。。。。。そう考えていたら、コロナにより(リモートワークにパソコンが必要なので)揺り戻しがありそうです。私の考えも大してあてにはなりませんね(笑)
非常に興味のわくタイトルです。
「自由律俳句と詩人の俳句」樽見博/文学通信
樽見博氏は「古書通信」の編集長で、俳句同人誌「鬣」同人。「鬣」は、私も少し縁のある俳句誌で、自由律・多行俳句もあり。
紹介ページは下記のリンクより。
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-50-0.html
巻末には荻原井泉水の著作目録を付録として収録するようです。
【本書に登場する俳人・詩人の一部(五十音順)】が、なかなか圧巻。
青木此君楼、秋山秋紅蓼、朝倉九鵞子、安住敦、鮎川信夫、有馬登良夫、阿波野青畝、安齋櫻磈子、安藤一郎、飯田蛇笏、池内たけし、石井夢酔、石川啄木、石田波郷、市川一男、井手逸郎、伊東俊二、伊藤松宇、井上宗雄、岩佐東一郎、上田都史、臼田亜浪、内島北朗、内田南艸、宇野竹緒、大岡信、大須賀乙字、大谷句仏、大場白水郎、大橋裸木、大山澄太、岡崎清一郎、荻原井泉水、奥村四弦人、尾崎紅葉、尾崎放哉、小沢碧童、小沢武二、小澤實、小野蕪子、風間直得、加藤楸邨、加藤花臥衣、唐沢隆三、河井酔茗、川端茅舎、河東碧梧桐、北園克衛、喜谷六花、北原白秋、木下夕爾、木俣修、國又叢爾、國吉大也、九貫十中花、久野仙雨、窪田般彌、久保田万太郎、栗林一石路、黒田忠次郎、小林一茶、小林満巨斗、近藤東、西東三鬼、朔多恭、笹沢美明、佐藤清、佐藤紅緑、寒川鼠骨、城左門、杉山田庭、鈴鹿野風呂、千家元麿、高野素十、高橋鏡太郎、高浜虚子、高屋窓秋、高柳重信、瀧春一、瀧井折柴(孝作)、田澤八甲、田中冬二、田中豫生、谷川雁、谷山花猿、種田山頭火、坪内稔典、富澤赤黄男、富安風生、内藤鋠策、永井荷風、永田耕衣、中塚一碧楼、中原中也、永見七郎、中村漁波林、中村草田男、夏目漱石、成田猫眼、西垣卍禅子、野村朱鱗洞、野村泊月、萩原朔太郎、萩原蘿月、橋本夢道、長谷川かな女、長谷川素逝、幡谷東吾、林桂、林雀背、原鈴華、原石鼎、日夏耿之介、日野草城、平松星童、福島農夫男、藤田源五郎、藤富保男、細木原青起、細谷不句、細谷源二、前田夕暮、正岡子規、松尾敦之、松尾芭蕉、松根東洋城、まつもとかずや、水原秋桜子、三橋敏雄、宮本夕漁子、武者小路実篤、村上菊一郎、村上鬼城、村野四郎、村山古郷、室生犀星、本井嘉一、八十島稔、八幡城太郎、山口誓子、山之口松、ゆりはじめ、横山林二、吉岡禅寺洞、吉川金次、吉田一穂、吉本隆明、米倉勇美、鷲巣繁男、渡辺水巴
第4回尾崎放哉賞が決定しました。
入賞句を一部紹介します
<一般の部>
◆尾崎放哉大賞
だんだん空が大きくなる坂を上る 東京都 遠藤 多満
◆春陽堂賞
誰もいない野で水車が時を洗っている 兵庫県 堀尾 深放
◆優秀賞
グラスの氷が溶ける音で切りだす話し 福岡県 丹村 敦子
春を信じている継続定期券 東京都 中井 靖子
薄野に乳房ひとつ隠して帰る 宮城県 汐海 治美
僕ひとつ消えて信号は青 東京都 岩渕 幸弘
背表紙だった鳥を放してやる 千葉県 小笠原 啓太
<高校生の部>
◆最優秀賞
書架のほこりを射ぬく冬の光
群馬県立伊勢崎興陽高等学校 大野 美空
◆優秀賞
猫に旅をさせたくなる冬満月
武蔵野大学附属千代田高等学院 岩崎 寿知
入道雲の向こうまで歩いていけそうな夏
名古屋市立桜台高等学校 川村 瑠美
胸の奥つっかえたままのビー玉ひとつ
東筑紫学園高等学校 宮川 唯
髪をすすぐ明日きる髪
角川ドワンゴ学園N高等学校 日和 沙絵
夜が滲み出す校舎に座す
愛知県立旭丘高等学校 渡邉 美愛
桜が満開になる頃私たちはもう散っている
群馬県立伊勢崎興陽高等学校 青木 美空
マスク干す今日も世界の星は降ってる
聖ウルスラ学院英智高等学校 横溝 麻志穂
校庭の隅を彩るあなた
岡山県立瀬戸南高等学校 森伊 七海
会いたいと思うたび夜が曲がる
東筑紫学園高等学校 勇 椋太
水中から星をすくい上げた冬
群馬県立伊勢崎興陽高等学校 上野 可蓮
赤い弁当箱を水にさらしておく
愛媛県立大洲高等学校谷本 かな子
自由律関連の書籍を6冊購入。
・ふらここ叢書 河本緑石作品集1~5 河本緑石研究会
・戦後俳句作家シリーズ32 家木松郎句集 海程戦後俳句の会
河本緑石は、盛岡高等農林学校時代、宮沢賢治とともに「アザリア」という文芸同人誌を発行。詩・自由律俳句を書き、大空放哉伝という尾崎放哉の評伝も残しています。鳥取の自由律俳句の礎。
家木松郎は荻原井泉水の「層雲」、のち、金子兜太の「海程」に所属。
こういう類のものは(ネット上で古本を探す場合)「amazon」にはないことが多いですね。「日本の古本屋」で見つけました。
どちらもまだ読む時間がなくて積んでいますが。いずれ句抄をこのブログに挙げたいと思います。
(文:久坂夕爾)
新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
*
コロナ禍が収束しない中、いろいろ不便な生活を強いられている方も多いのではないでしょうか。
個人的なことなのですが、私も高齢の母と半同居生活ですので、私が県外移動すると、母へのヘルパーさんが一定期間来てくれなくなる、母の通院に付き添うと県外移動時期やら説明せねばならず面倒が増えるという現実もあり、以前は2ケ月に1回くらいで行っていた東京の仕事は断るかリモートとなりました。東京・古書街に行くという気晴らしがなくなってしまいました。生活困窮者や自殺者が増えたというニュースはもっとも心が痛みますし、長いことフリー(真っ先に仕事を切られる立場)で仕事をしてきた私には他人事ではありません。
コロナに関し、どういう句が生まれているのかは興味があるところですが、自分だったら、未知のものが生き物のからだの中に入り込んでいる(入り込んでくる)恐怖感、しかも、それが太古から続いていることなど書きたいですねえ。
*
最新号の「青穂」からコロナ関連と思われる句をあげてみます。
虚ろな目に純情マスク 伊藤風々
しゃべりたい口に聞いてくれる耳がない 久光良一
キュウリとナスとマスクをお供え 福田和宏
コロナ禍の尻取ゲーム暇つぶし 𠮷田敷江
面会禁止の張り紙受付に「頑張れ」のメモ記す 埋田貞子
僕の濃厚接触者は猫背のねこです 伊藤人美
夏の雲体温計をはさんで36.5度 小山幸子
(社会的距離)守る蛍や無常の愛 中村友乙
※社会的距離に「ソーシャルディスタンス」のルビ
だれもが不安背負いながらマスクの中で笑う 南家歌也子
コロナ談義沸騰 青い朝顔ひとつ 平岡久美子
コロナ自粛の旅気分外から入るサービスエリア ちばつゆこ
会うこと控え窓越しの暑い夏とコロナ 加藤武
コロナの言葉でテレビを切る 菅沼良行
コロナ禍で予告なしの花火の音 響く 渡辺敬子
*
ある方から、コメントの書き方がわからない、という質問がありましたので、
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以上です。
(文:久坂夕爾)