ちょっとした昔話です。
高校生の頃、好意をもっている女の子がいたのですが(付き合うまでには至らず)、その子にある日、こんなことを言ったのを覚えています。
「そんな人だとは思わなかった」と。
すると、その子はこう切り返してきたのです。
「それはあなたが勝手に私をイメージしていただけのことでしょう」と。
彼女の発言をどう感じたのかは覚えていませんが、まだ高校生ですからねえ、当時の私はきっとショックだったのでしょう。今でも覚えているくらいですから。
彼女が倫理的に正しくないことをした、とか、そういうことではなかったと思います。完全に私の、彼女はそういう言動をしないだろう、という思い込みから来た発言で、思い込みであると気が付いたのも、もっと後になってから。もっといえば、「そういう言動をするかしないか」という私の判断基準を、一般的な倫理基準のように扱う、という二重の意味で恥ずかしいことを私はしていたわけです。
つまり、徹底的に彼女の発言のほうが正しいわけで。私の発言はもう、どうしようもないものですが。
ただ、その「どうしようもなさ」は結構多くの人にあるもののように思うのです。どうしようもないものを、裁くでもなく嘆くでもなく(それは「社会性」を「人間の現実」より上位のこととして観てしまうことに繋がるのではないかと。娯楽系の作品にはありがちですが。「いい人なんだけど〇〇〇」のような物言いも、この2つを同じ土俵で見てしまっているように思えて好きではありません。社会生活を営む上での規範と、人間性、とを順位づけて考えてはいけないでしょうね。)、ただ見続けること。
そんなことを思い出したのは、最近、こういう小説を読んだからでしょうか。
吉村萬壱「死者にこそふさわしいその場所」
帯にはこうあります。
折口山に暮らすのは……
・セックスの回数を記録する愛人
・徘徊癖のある妻を介護する老人
・アパートのドアが開きっぱなしの裸男
・朝どうしても起きられなくなってしまった女
・困った人の面倒を見たがる聖職者
どうしようもない人たちね
(文:久坂夕爾)
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