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2022年3月20日日曜日

訃報 清水哲男

 詩人であり俳人でもある清水哲男さんがお亡くなりになりました。私にとって、さまざまなものへの「入口」になってくれた方でした。

 著書を通じて、近代詩の抒情に慣れきっていた私に、現代詩の面白さに気づかせてくれた方でした。存命の詩人ではじめて好きになった方でもあり、また俳句への造詣も深く(俳句歴のほうが長かったように思います)、俳句の読み方を教えてくれた方でもあり、その「増殖する俳句歳時記」は俳句史に残るものでしょう。※増殖する俳句歳時記には、青穂同人のきむらけんじさんの句が一句掲載されています。他、自由律俳人では、尾崎放哉・種田山頭火・橋本無道・栗林一石路・松尾あつゆき・住宅顕信。

 直接お会いしたのは1度だけ。横浜詩人会での講演でいらしたときに、二言三言交わした程度です。小説・詩・短歌・俳句の総合投稿誌「抒情文芸」で選者をされていた際は、何度も私の詩を選んでいただきました。苦言を呈されたことも、素晴らしいとほめていただいたことも両方覚えています。私のホームページで、掲載詩集不明として詩を紹介したことに対してメールでお礼が来て、「いいかげんな男ですから」と書いてあったことも忘れられません。謙虚さからではなく、多分ご自身のことを本当にそう思っていたのでしょう。
 
 日常のなかで忘れがちな、けれど確かに自分のなかにある、ふとした瞬間の自意識のその苦さ。清水哲男という詩人を思い出すとき、よく考えるのはその苦さです。近代の抒情詩は自己陶酔的甘さに流されがちですが、その対極にある、けれど確かに平易な抒情を貫いている、と私は思っています。
 詩集は多数ありますが、私のお気に入りは、「スピーチ・バルーン」「雨の日の鳥」「東京」「夕陽に赤い帆」。句集に「匙洗う人」「打つや太鼓」。俳句誌「俳句界」の編集長でもあったようです。詩歌文学館賞、萩原朔太郎賞、三好達治賞、丸山薫賞。
浅黒い肌、痩身のジーンズ姿を思い浮かべます。ビールが好きで野球が好きで、詩のなかではときおりべらんめえ調になる。もうどこにもいないのですね。ショックです。

後退する。
センター・フライを追って、
少年チャーリー・ブラウンが。
ステンゲル時代の選手と同じかたちで。

これは見なれた光景である。

後退する。
背広姿の僕をみとめて、
九十歳の老婆・羽月野かめが。
七十歳のときと同じかたちで。

これも見なれた光景である。

スヌーピーを従えて、
チャーリーに死はない、
羽抜鶏を従えて、
老婆に死はない。
あまりに巨大な日溜りのなかで紙のように、
その影は、はじめから草の根に溶けているから。

そんな古里を訪ねて、
僕は、二十年ぶりに春の水に両手をついた。
水のなかの男よ。それも見慣れぬ……
君だけはいったい、
どこでなにをしていたのか。
どんなに君がひざまずいても、
生きようとする影が、草の高さを超えた以上、
チャーリーは言うだろう。
羽月野かめは言うだろう。
ちょっと、そこをどいてくれないか。
われわれの後退に、
折れ曲がった栞をはさみ込まれるのは、
迷惑だから、と。

「チャーリー・ブラウン」戦後名詩選Ⅱ/思潮社


詩集「東京」あとがきより
 ひとりの、ささやかな表現者として生き続けるということは、たえず自己の空虚に突き当たりつづけるということでもある。その空虚さのなかで、空虚そのものを対象化すべく努力するという作業にしがみつくことの意味を、空虚の側から説明させれば、なにがしかの好意的な解答も出てくるのであろう。
 人を詩にいざなうものは、おそらくはその種の解答を半ば本能的に求めている心根から発していると思われる。しかし、現在の自己が過去の自己からは連続的に到達できない極限点であるのだとすれば、決して詩にすることができないものこそが、実は自己の空虚そのものでなければならないはずなのであった。(後略)


さらば夏の光よ男匙あらう 句集「匙洗う人」/思潮社

(文:久坂夕爾)

2022年3月11日金曜日

文芸に関する記事2つ

インターネットで面白い記事を見つけたのであげておきます。

 

◆第65回岸田國士戯曲賞に寄せて 柳美里

https://genron-alpha.com/gb065_02/

他人の作品を選評するとはどういうことか、文学とは何の上になりたっているか、文芸ジャーナリズムとは何か。出版社・作家どちらの味方か、という表面的なことではなく、考えさせられることの多い文章です。

文学で年齢(経験年数)は関係ない。創作者も生活者であって、文学はその上に成り立っている。この2点を言及している前後は特に。


柳美里氏といえば、小説「JR上野駅公園口」が話題になりましたね。また、文中、高樹のぶ子氏の発言が引用されていました。たしか十代の頃、小説「光抱く友よ」を読んだことがあります。


◆デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)(無意識下の脳の活動)について

DEGITAL DETOX

https://digitaldetox.jp/column/dmn_sanjyo/


「科学技術情報発信・流通総合システム」(J-STAGE)

https://www.jstage.jst.go.jp/static/pages/JstageOverview/-char/ja


シュルレアリスムを思い起こしました。

シュルレアリスムとは、わけのわからない(シュールな)ものを描くということではなく「自動筆記」などに象徴されるように、無意識下での意識を掘り起こす芸術活動だったと記憶しています。

付記したJ-STAGEは、専門家の論文を読むことが出来るサイト。

インターネットが発達して、こういう専門知のデータベースが無料で閲覧できる。しかも、私のような素人でもgoogleで検索してすぐに表示される。


先日は別のデータベースで、日本における過去の識字率に関する論文を読みました。識字率を{①自分の名前を書けない}{②自分の名前を書ける}{③物語などを読んで理解できる}の3段階に分けて、江戸時代あたりからの公文書をもとに分析したもの。

昭和20年代でも①の方はいたことは知っていましたが、明治時代のある地方では③の方は約30%にすぎなかったようです。江戸時代の日本が、『多くの人民』が物語なども楽しむことが出来る『世界に冠たる文化国家』だった、というようなよくある言説はちょっと眉唾かもしれません。自分の所属する領域・団体をひいきしたがる普遍的心情が、いつのまにか事実を捻じ曲げるかもしれないという、これもありがちなことです。からだの感覚がもたらす「イメージ」と、あたま(こころ)が勝手に世間から引用した「イメージ」は分けないといけない、後者には(専門知による)裏付けが必要、ということだと思います。


(文:久坂夕爾)