
青穂55号が発行されました。
青穂55号が発行されました。
青穂本誌での企画記事「記憶に残る俳人・俳句」。
同人各自が紹介する、自由律俳句・俳人を転載します。
・市川一男(1901~?)
人に逢いたくない日の自分の足あたためてやる
さびしさ一つこらえては透明なうろこ一枚はやし
まっくらやみにもつれて糸がひとかたまり
・まつもとかずや(1928~?)
だまってだまって、このいしをあちらへのけるこうい
ちちはつねに、おおきななみだをためている
不況がきびしく、下むいてとぐはさみのむこうに家族
・尾崎善七(1907~1938)
まずしさ軒に夕月一つ火をたく
月の明るさ児を負うてゆく
やなぎゆれる冬あおぞらの子を抱いて纏足のおんな
人間が人間と血を流し今日も空がすっきり澄んでいる
私が戦死した夢であったりして暁の星一つまたたく
・渡野邉朴愁(わたのべぼくしゅう)(1927~2016)
裸いとし人間なんとたくさんの傷あとを持ち
尾骶骨にいつもあるおもい昼月欠けて浮く
地球剥ぐと宙へひらひらいちまいの四季
寒さ音にして湖心さす舟
枯野の嗅覚火にすると春が匂う
・塩地キミヱ(1936~2017)
はじめて踏んだお百度の足を洗う
生きる意味求めて七十九歳暑気中り
丁寧に生きたしるしの固いペンだこ
嫌われてもいい清廉でいたい女の秒針
・佐瀬茶楽(1905~1989)
畑は菜の花にうもれる満月
と、ゆらぎ海は黄金の朝暾
婆がわらうつ音のするしぐれ
おもてへでてうちわの軽さ持っている
子が子をつれてくるお正月
・岡野宵火(おかのしょうか)(1916~1951)
バス満員で下ってしまふと秋の高原を残ってゐる人たち
逢ふてさえをれば、の二人で秋が散って散って
何かひっかかる句(人)、惹かれる句(人)があれば幸いです。
いい企画ですよね。私が注目したのは渡野邉朴愁。
(文:久坂夕爾)
青穂49号の同人の句よりいくつか紹介します。
例によって、私の句評は参考程度に。
蝉しぐれ唖の両手目まぐるし 楽遊原
「蝉しぐれ」と、続く「唖(唖者)」は、初見ではかなりの飛躍に思えるかもしれませんが、案外近いところにいます。というのは、「音」「光」は、それが元々ない場面(静寂、闇など)だと目立つのですが、それだけが過剰に存在すると「音」も「光」も知覚できなくなる。芭蕉の句の、蝉しぐれを「しずけさ」と感じる所以のように。発語が困難な方(しかも多分聴覚は正常な方)の表面上の無音と、手話をする両手(つまりその人の思考や感情)の切迫感を対照的に表現しています。個人的には、「し」で終わると文語調になって、両手の躍動感が殺されてしまったのではないか、自由律だからもっと語尾も自由に口語らしくしたほうが、と少し気になりましたが。
花首切られ俄かに人の華となる 一の橋世京
「俄かに」と接続されると、首を切られた瞬間が読み手の脳裏に残ったままの状態で、次の節(人の華)の意味を拾うことになります。切り花が人の心を楽しませる、という、それだけの意味を伝えるだけでしたら、一般論だけで作者自身がいない凡庸な句になってしまうのですが、そこに、「(花屋の手によって)首を切る・切られる」という行為の残像を見せたことで面白い作品になったと思います。
さくらさくら隠した鬼がでてきて騒ぐ 高木架京
「隠れていた」ではなく、「隠した」。この句にほのかに「批評」(自分に向けてなのか他者に向けてなのかはわかりません)を感じるのは、「隠した」のは、「鬼」とはいったい誰だろう、と考えさせられる部分があるからでしょうか。さくらの花かげからぞろぞろ鬼がでてきて、そこには本当は鬼がいるのだと不意に気付いてしまう恐ろしさ。
小手毬転がってゆく闇の中 小山貴子
小手毬の花の様子をうまく捉えた句。闇に転がすことで、自分の預かり知らないところで何かが連綿と続いているという、えもいわれぬ感覚を呼び覚まします。
あした着てゆく喪服ひろげて欠伸 伊藤人美
人にはいろいろな感情がありますから、『喪服』という題材=『悲しみ・悼み』とは限らず、おそらく、さほど関係の深くない人の葬儀前日の、もしくは葬儀続きで疲弊していて、あまり積極的には行く気になれない心中を捉えています。ありのままの気取らない日常を捉えていて、俳句は「雑」(あらゆる瞬間)の詩でもあります。捉えどころがいい。
妻をほめるふわり海月が寄ってくる 奥野立日十
つけ睫毛ケースに入れて故郷へ帰った きむらけんじ
菜の花は海に溺れる無限階段 加藤邪呑
(文:久坂夕爾)
青穂48号が発行されました。
今回はもう一人の裏方が担当します。
5月の尾崎放哉賞の授賞式に出席したのですが、協賛をいただいている春陽堂書店さまのご挨拶の中で「最近、放哉はヨルシカなどでも盛り上がっており・・・」というコメントがありました。当方「???」
式の運営もあり、その場は質問することもなく過ぎたのですが、懇親会で高校生の部の入賞者と隣席となりました。「どうして自由律俳句を作り始めたの?やはり山頭火?」というありふれた問いを投げかけたところ、「ヨルシカがきっかけです」ときっぱり凛々しく答えてくれました。当方「???」
「オジサンさあ、何語を言ってるのかよくわからないんだけど、それ何なのか教えてくれる?」と哀願したところ、彼はニッコリとほほ笑んで、おもむろにスマホを取り出し、YouTubeで示してくれました。
知ってる方は知ってるのだと思いますが、人気のあるバンドだそうです。一部の楽曲は尾崎放哉の句のオマージュとなっているとのこと。
ヨルシカ『嘘月』より。
「夏が去った街は静か 僕はやっと部屋に戻って 夜になった こんな良い月を一人で見てる」
「歳を取った 一つ取った 何も無い部屋で春になった 僕は愛を、底が抜けた柄杓で呑んでる」
放哉の句はそのまま引用されているわけではありません。
とても練り上げられた歌詞だと思います。次回はヨルシカの「思想犯」を引用します。
青穂本誌では、約1年前から「記憶に残る俳人・俳句」という持ち回り記事が掲載されています。
最新号の(6)まで、どういう俳人・俳句が掲載されているか、ちょっと抜粋してみます。
・近木圭之介(1912~2009)
いっしょにあるけばまがってゆくみち
自画像 青い絵の具で蝶は塗りこめておく
朝 卵が一個古典的に置かれていた
・井上泰好(1930~2015) ※第1次尾崎放哉賞主催者
桜が咲いて地球がやさしい顔になる
埋めて貰う墓地から港が見えて春の海
何はなくとも春の風がある古里に住む
・吉田雅童(?~2007)
石に雨ふる短律
蛇とて月夜の木のてっぺん
天からもろうて雨もり
・吉浦俊雄(1930~2014)
夕闇青く草が蛍をはなつ
おのおのおのれの脱いだ履物へ散会す
こころ炎天へ耕してからっぽな土とす
・時実新子(1929~2007) ※川柳作家
ブラックコオヒイ女がさめてゆく過程
入っています入っていますこの世です
ひぐらしが死ぬほど泣いたひとごろし
・高田弄山(1956~2013)
ほたる仮縫いの夜をほどく
笑っている人の顔で笑っている
酔いしれてバラの上で風葬される
気になった作家がいましたら、ネットで検索してみてもいいかもしれません。
私も、俳句を始めたころは、よくネット検索して好みの作風の作家を探したり、好みの作家の作品を探して、ネットの国会図書館のページを探ったりしていました。
そして、このページが、そういう方の検索時にひっかかってくれると、うれしいですね。
(文:久坂夕爾)
感情やら意見やら、というものは、自分のなかから自然にたちあがってくるものではなく、それのきっかけ・芯になるようなものがかならずあると思っています。何を見たのか、何をどうみたのか、感じたのか。人間の感情や意見は結構似通っていますが(だから「共感」や「季語によるイメージの共振」が生まれるのですが)、これらは個性的です。
ということで、本誌前号から、ちょっと面白い素材、ちょっと面白い見方・感じ方(認識)があると思われるものを選んでみました。
作者はこの句を作る際、ことばの奥に何を見ていたんだろう、何を感じていたんだろう、と想像するのが面白い。句として成功しているかどうか、は目利きのかたの判断にゆだねるとして。卑近な素材から庶民感情を描く、散文的、という意味で川柳に近いものもあります。もっとも、現代は川柳・俳句の区別は結構あいまいで、区別の必要はないという意見もあるようです。
肉豆腐ワシントン広場には風花 伊藤清雄
筋トレしてきた昨日お父さんが死んだの 鈴木しのぶ
入り江は食い意地を張る 早舩煙雨
鳥籠の子らは闇のピエロの仕業です おおひさ悦子
おてんとさまちかみちをしてずるい 田畑剛
止めたところから夢を再生する 黒崎渓水
音を殺して熟柿を啜った 𠮷田敷江
人嫌い烏瓜の宙ぶらりん 高木架京
かくれんぼ鬼ばかり増えていく秋の野 平岡久美子
バラ亭開店藤島恒夫のチンドン屋(※) 草場克彦
身のうちに烽火をあげる分身Z 奥野立日十
暗闇が乗車してくる無人駅 水上百合子
すきにしたらええやんか月夜の案山子 伊藤人美
基地の献立は既に侵略されていた 福田和宏
今朝もまず猫じゃらしの会釈 吉多紀彦
前へならえの前は極道になりました きむらけんじ
象が足つっこんで萩あふれるバケツ 小山幸子
野薊は空と海との表面張力 加藤邪呑
曇り空どこまでもあんたのせい 小山貴子
※藤島恒夫 おそらくですが、正しくは藤島桓夫(たけお)だと思われます。演歌歌手。代表曲は「月の法善寺横丁」 wikipediaより参照。
「死んだの」「ずるい」「なりました」「あんたのせい」。せきしろ氏の自由律俳句でも感じることですが、口語の語尾のニュアンスを生かせるのは自由律俳句の親しみやすさでもあるでしょうね。
(文:久坂夕爾)
青穂41号が発行されました
画像は、上から表紙(戸田勝画)、色紙(吉岡禅寺洞)、青穂抄(久光良一選)
身近過ぎて難しい。ステレオタイプになりやすい、甘くなりやすい
少年・少女・男・女・親・子・孫
という題材で、最新の「青穂」から無作為に作品をひろってみました。
春に亡き子の影はなし おおひさ悦子
同じ作者には、私が好きな句「十二年も同じ顔の子を見て飽きない」があります。
今回は『不在』(観念)を表現していますが、「十二年~」の句は『在』(行為)を表現しており、逆に作者の(子の不在を思う)情動がありありと見えてくる様に個人的には思えるのです。ここを読んでいる方々はどう感じるでしょうか。
バス停に立っているまだ母の顔 鈴木しのぶ
男湯と女湯だけの暖簾が揺れる 楽遊原
頬被りの女人形焼きを売る 伊藤風々
おとぎ話丸めながら親子の毛糸玉 いまきいれ尚夫
わきまえない女たちに日脚伸びている 平山礼子
少女るり蝶さがす青春のうなり ゆきいちご
象の祖母象の母象のわたしアカシアの花のした 久坂夕爾
女子高生のラブレターきて水男子湧く 奥野立日十
女の体を淡く浮かせて狼となる 久次縮酔
夜が怖くて起きてきた子 伊坂恵美子
胸の底貴女の影がかしこまる 秋生ゆき
女に生まれたくなかったの鏡に春寒し 小山幸子
私の鼓動この子の鼓動合わさる布団の中 ちばつゆこ
振鈴朗朗と七五三への思いの新たなる 小池ますみ
コロナ禍で安否気遣う遠方の息子 渡辺敬子
朝焼けの消えぬまに息子の弁当盛付けて 加藤武
自らを語らず青年そこはかとわらう 幾代良枝
ランドセルにジャンパー着せて三寒四温 河野初恵
激昂する男の夢で覚めたがまた寝る 小山貴子
子と孫は遠く離れて独居の薬の数 渡辺敏正
蟹座のおばあちゃんはたぶんお人好し 南家歌也子
公園や孫の手を引き今引かる 高橋恒良
道すがら満月指して尋ねる児 西川大布団
(文:久坂夕爾)