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2026年9月28日月曜日

第10回尾崎放哉賞募集中(11月30日締切です)

 第10回尾崎放哉賞の募集中です。

11月30日の消印有効、二句一組で投句料は2000円となっています。

また、高校生は半額で何句でも投稿できます。


詳細は以下のリンクをクリックしてください。

尾崎放哉賞


(文:久坂夕爾)


きわめて個人的な感懐として

 いつも訪問ありがとうございます。更新が滞っている今でも、1日平均200ビュー以上ありまして、ありがたいことです。今回は最後の記事、ということで、詩に関するごく個人的な感懐を述べてみたいと思っています。言わずもがな、とは思いますが、これから書こうとしているのは、久坂個人の意見や述解であって、青穂とはまったく関係ないことをお断りしておきます。


 高校生の頃、文学部に所属していました。確か十数人部員はいましたが、本気で文学・詩が好きなんだなあ、と見えたのは一人だけでした。部誌とは別に、ともに同人誌を企画発行したりしましたが、そのK君もその後筆を折ります。「君には才能がある。俺の分まで頑張ってくれ」などと言われたけれど、うれしくなかったなあ。むしろなぜ辞めるのかと怒った覚えがあります。「いや、ここの詩句は少し安易だろ」などと気安く言い合えた詩友は、結局このK君だけでした。現代ではこういう批評も『悪口』のように聞こえてしまうんでしょうね、きっと。部内では作品を持ち上げられることも多かったけれど、居心地が悪いばかりで、結局幽霊部員みたいになってしまいました。この時の、求めるものが根本的に違う集団に所属することの落胆や居心地の悪さは、その後、俳句や詩のサークルに所属しようかと思ったときの大きな逡巡につながっています。そして、詩歌というジャンルはプロアマの境がはっきりせず、また、特に短歌俳句は流派という悪しきセクショナリズムを抱えていると知ったのは十年ほどあとのことです。(『文人俳句』ってなんだ!とか、俳句も短歌も同じ韻文(詩)だろう!とか、憤慨した覚えがあります。)

 小説をやめ、詩だけ書いていた私が俳句も書き始めたのは、もっと単純で短いことばでなにか表現できないかと模索したことがきっかけですが、当初自由律俳句には、俳句にも、いい印象はありませんでした。放哉はともかく、山頭火の自己愛の強い(と私には感じられます。もちろん作品の良し悪しとは関係ありません)作風は敬遠していましたし、ネットでちらと見かけた結社の自由律俳句もどこか物足りないものが多い。「一行詩」と銘うって活動しようか、「中句」(宗左近の命名)としようか、迷っていたときに見つけたのが飯島翠壺洞という自由律作家。国会図書館で「層雲」のバックナンバーを漁って、こういう書き手がいるのなら現代の自由律俳句も悪くない、と思ったことを覚えています。

 このとき感じた「物足りなさ」の原因は、散文的であること(意味偏重であること)と趣味的であること。前者はまだいいんです、目指す作風の違いだから(嫌いだけれど)。後者が困るのは、根本的な目的が違う(個人の愉しみやコミュニケーションが主目的になっている。共感するかどうかが主眼になることが多い。)こと。『自分の素直な気持ちを自由律俳句にして』とか『誰にでもわかりやすく自由なリズムで気持ちを伝える』などと謳ってある自由律のサイトを見ると、個人的にはかなり違和感があります。

 この違和感について、いろいろ考えてみたことがあるのですが、多分、ことばで創作する方のなかにある、『「技術」「知識」「感性」への無意識の軽視』への違和感なのではないか、と思ったことがあります。それが正しい答えかどうかはわかりませんが、印象に残っていることがふたつあります。

 ひとつめ。商業詩誌への投稿とインターネット(HP、ブログ)の2つを主軸に詩を作品発表していたころ、あるかたが同じようにネットに詩を発表していたのですが、その方ははっきりと明言していたのです、「私の好きなように書いて発表しているだけで、それに共感してくれる方だけを求めている。批評は望まない。」というような趣旨のことを。これにはびっくりした記憶があります。不特定多数に向かって発表しているにもかかわらず、この認識は何だろうと。(今では、私のようにびっくりする人のほうがたぶん少数派なのだろうという想像はいやでもつきます。)

 ふたつめ。自分のブログで茨木のりこの「倚りかからず」だったか「自分の感受性ぐらい」だったかの詩を批判したことがありました。この方の他の詩に比べて散文的すぎて、ここには詩人の意見が目立つばかりだと。これに反発した方からメールが来たのですが、「詩人に怒られているようで目が覚めた」とか「感動した」という言葉があるばかりで、私の論点についての批判になっていなかったんですね。まあ、私はもともと散文的な詩が好きではないのですが(立原道造という詩人があるとき友人への手紙にこう書いています。『高見順なんて大嫌いだ。散文精神なんて死んでしまえ』と。。気持ちはよくわかります。)、「自分がそれをどう受け取ったか」だけで作品を見てしまうのはどうなんだろう、ともやもやした気分になったものです。作る立場に立っていないのではないかと。たとえば、たとえ日曜画家であっても「青空」を表現するために「青絵具で塗りつぶす」ことはしません。偉そうなこと書きましたが、私自身が常に迷うことでもあります。作品の出来不出来とか作風の違いなんて、これらに事柄に比べれば実はささいな問題なのではないかと考えることもあります。

 「青穂」に入る際、見本誌を読んで、こういう方が書いているのなら少し安心だ、と思ったのは、きむらけんじさんと加藤邪呑さん。きむらさんの句は、共感性が高いので同人内では人気だと思いますが、私の評価はそこではなく、換喩の使い方が抜群にうまいからですね(結果的に共感性が増す)。加藤さんの句は、感覚的な正確さ。多分、「意味」だけをとろうとする方には難しく見え、「正確さ」を感じ取ろうとする方にはオーソドックスな表現に見えるはずです。摂津幸彦という俳句作家を難しく感じる方がいる(きっと『頭』で考えて読みすぎているのでは)のも同じ理由かもしれません。それから、ほぼ毎号のように載る小山代表の研究資料。これも同人誌にはめずらしいことです。

 これは以前どこかのエッセイに書いた覚えがあるのですが、多くの人は、日常の言葉使いで多くの比喩や飛躍、フィクション表現などを使っているにもかかわらず、いざ「詩」を読むときは文章を読むように読んでしまう。映画も小説も音楽も、古今さまざまな技法技術を取り入れているにもかかわらず「詩」となるとそれらを否定してしまう。これらは、『書く』ハードルが低い「詩」の宿命かもしれません。ただ、現代短歌には大胆に「はなしことば」を取り入れてユニークなものがありますよね。「短歌を使って気持ちを伝え」ようと考えるのではなく「(気持ちを伝えることも含め)短歌に何ができるか」模索する新しい書き手がいるからでしょう。自由律俳句の誕生にも、結局は俳句という短い表現で何ができるか、という思いがいちばん最初にあったはずです。

 自由律俳句に何ができるか。私が十年ほど書いてみた感想は、「俳句であっても、フィクションも物語性も十分扱える。」というものでした。定型ではかなりアクロバティックな言葉使いをしないと実現できないものです。もちろん、その先にあるものこそが主題ですが、私の力量がそれを描くのに足りているのかはわかりません。個人的には、上記に書いたことのほかには、もっと『話しことば』を取り入れてもいい、もっと身近な(でも個性的な)題材はたくさんあるはず、との思いがあります。


 上述した、商業詩誌やネットで発表していたころ、もう三十年も前のことですが、ファンだと言ってくれた方(確かカメラマンの卵だと言っていました)から「なぜ詩を書くのですか」と聞かれた際、こう答えた覚えがあります。 「そのときそのときの、自分自身を含む世界そのものを、そのまま切り取っておきたい」と。今もそれは変わっていません。ビクトル・エリセ監督の映画「マルメロの陽光」をご存じの方は多いと思いますが、まさに、私がやっていること自体はこの映画に出てくる画家と同じだなあ、とつくづく思います。そして、人生に踏みつけられそうなときもありながら、詩はつまらないと言って小説ばかり読んでいた(講談社文芸文庫はかなり読破しました)時期もありながら、それでもまだ読みたい・書きたいと思わせる詩というものの不思議を思います。

 最後に、物故ですが現代の自由律俳句作家のおすすめと、最近あまり詩歌を読んでいませんので、ここ数年で私が読んだ俳句以外の収穫を載せておきます。私の志向と近い方はご参考までに。長文失礼いたしました。

 

 自由律俳句:飯島翠壺洞、高田弄山(クリックするとブログ記事が開きます)

 詩:パウル・ツェラン詩文集/飯吉光夫訳(白水社)

 そのほか:小林美代子「蝕まれた虹」(鳥有書林)

      ゼーバルト/鈴木仁子訳「土星の環」(白水社)

      小梅けいと/スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ原作

           「戦争は女の顔をしていない」(KADOKAWA)

      ダンセイニ/原葵訳「ヤン川の舟歌」(国書刊行会)

(文:久坂夕爾)


2026年7月13日月曜日

初期伊万里小溝窯の陶片(黒崎健一共著)

 






 高校生の頃、ふと思ったことがあります。教科書は何故政治史中心なのかと。「〇〇幕府滅亡」などと書いてはあるが、人が滅んだわけではない。人々の暮らしの軸はそれほど変わらなかったのではないかと。そんなふうに思った方、いないでしょうか。きっといると思うのですよね。政体の変化などよりも、貨幣の発生とその流通、土地所有の変遷、暮らしを支える道具(交通機関などのインフラも含む)の変化。それひとつひとつを中心にまとめられていたっていいのに、と。そのほうがより人間の歴史なのだと。

 青穂同人の黒崎渓水(健一)さんから贈呈されたこの書籍を受け取ってすぐ、思い出したのは上記のようなことでした。
 この著作は、佐賀県有田町の小溝という地域で出土された膨大な磁器片を収集・分類・分析した学術的な著作です。ですので、細かい分析などは素人の私などにはわからない部分も多いのですが、こういう学術書を斜め読みする面白みは、地理的にも時間的にもあらゆる文化の断片は有機的につながっているのだと腑に落ちること、ですね。磁器に描かれた絵やデザインの出自(手本)に関する記述はとても興味深く読みました。
 この、「有機的につながっている」という視線を通すと、世界の様相(ことばの様相でもよいのですが)は、世間的な言質とは全く異なってくる。

 私が定期購読している冊子のひとつに、岩波書店の「図書」があります。この「図書」も、専門家(考古学者、人類学者、映像作家、陶芸家、文学研究者などなど)による著述が並んでいて、興味深く読んでおります。

 政体というもの、つまり教科書のようなもの、は、いわば町のメインストリートのようなもので、華やかでわかりやすいのですが、人間の実態というのはそこにはやっぱりないんですよね。一本道をはずれた地味な小道のなかに、目をしかめるような激しさや醜さやいじましさややさしさや凍り付くような生活の匂いがある。そんなことも思いました。

 あらためて、黒崎さん、著書をありがとうございました。

(文:久坂夕爾)

※約半年ぶりのブログ更新となってしまいました。
 このブログは、私・久坂の個人的事情により、あと1回で休止とさせていただきます。最後の1回は、自由律俳句(俳句)を始めたきっかけや、今、自由律俳句(俳句)に思うことなどを忌憚なく書こうと思っています。なるべく早く掲載しようと思いますが。。


2025年11月3日月曜日

青穂58号が発行されました







青穂58号が発行されました。一部を画像で紹介します。
画像は上から順に、
・表紙
・青穂抄(薄井啓司選)
・自由律俳人の墨蹟(富岡草児) 
・ならドットFMから⑥
・同人新刊案内 煙陽
・第九回尾崎放哉賞募集

目次より本号の内容
・追悼 三次の俳人  秋 津
・新同人紹介
・同人・準同人作品
・私の感銘句
・青穂の窓(黒崎渓水選)
・エッセイ・評論
 私と自由律俳句2           橋本登紀子
 きむらけんじ句集『朝起きたら自由律だった』鑑賞
                    平山礼子
 『青穂第二句集』より④         ゆきいちご  
 俳人阪本四方太(さかもとしほうだ)⑦  小山貴子
 「きまぐれ写俳日記54」        きむらけんじ
・一句鑑賞
・句会報
・ならドットFMより
・そのほか
 麦秋欄、お知らせ、編集後記
・第九回尾崎放哉賞募集案内

※スキャナのない自宅以外の場所で撮影している為、前号に続き画像が少し暗いですがご勘弁を。

(文:久坂夕爾)



2025年10月5日日曜日

第九回尾崎放哉賞 締切は11月30日です

第九回尾崎放哉賞の締切は来月30日となっています。

詳細は下記放哉賞のサイトでご確認ください。

尾崎放哉賞のサイト

※ 高校生の部はなくなりましたが、「○○高校〇年 担当○○先生」と記載があれば、投句料は半額の1000円となり、何句でも投句できます。

 メールでの投稿も受け付けています。


たくさんの応募をお待ちしております。



足のうら洗えば白くなる

流れに沿うて歩いてとまる

咳をしても一人

 どこかに同じようなことを書いたかもしれませんが。。。尾崎放哉の、こういう「なんでもない瞬間をとらえ」た句は好きですね。「なんでもないこと」「とるにたりない当たり前のこと」のなかにこそ人の感情や心理や真実が隠れているものだと思います。山頭火は感情を言葉に刻印しているような作風ですが(だから放哉よりも共感しやすく人気もある)、放哉句には、そういうなんでもない瞬間の「動作」や「所作」が書かれているので、読む人を引き込む力が強いのだと私は考えています。

(文:久坂)


2025年8月11日月曜日

青穂57号が発行されました

 






青穂57号が発行されました。一部を画像で紹介します。

画像は上から順に、
・表紙
・青穂抄(いまきいれ尚夫選) 
・同人新刊案内 三好利幸
・第九回尾崎放哉賞募集

目次より本号の内容
・第十二回青穂大会・第八回尾崎放哉賞表彰式
・追悼 大分の俳人 渡辺敬子
・新同人紹介
・同人・準同人作品
・私の感銘句
・青穂の窓(高木架京選)
・エッセイ・評論
 この世の色、この世にない色       久坂夕爾
 私と自由律俳句19           伊藤風々
 『幾代良枝自由律俳句』鑑賞     
      平山礼子 黒崎渓水 高木架京 小山貴子
 『青穂第二句集』より③          弓削酔魚  
 俳人阪本四方太⑥            小山貴子
 「ならドットFM」から⑤        小山貴子
 「きまぐれ写俳日記53」        きむらけんじ
・一句鑑賞
・句会報
・そのほか
 麦秋欄、お知らせ、編集後記
・第九回尾崎放哉賞募集案内

(文:久坂夕爾)



2025年6月11日水曜日

青穂56号が発行されました





青穂56号が発行されました。一部を画像で紹介します。

画像は上から順に、
・表紙
・青穂抄(井上敬雄選) 自由律俳人の墨蹟(尾崎放哉)
・目次 第八回尾崎放哉賞発表頁
・同人新刊案内 きむらけんじ、小山貴子
 ※新刊のお問い合わせについて
  きむらけんじさん著作は書店にてお求めください
  小山貴子さん著作はお問い合わせフォームでも受付けます

(文:久坂夕爾)

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ヘッダ写真を我が家の庭の薔薇に変えました。

ほぼほったらかしの我が家の庭ですが、沈丁花・芝桜・空木・小手毬・ラベンダー・野菊・薔薇、と早春から花の季節が続いています。次に咲くのは紫陽花。どこからやってきたのか、昨年夏には初雪草の白い葉が庭のあちこちで見られましたが、今年はどうでしょうか。

花ばかりがこの世でわたしに美しい (三好達治)
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2025年5月28日水曜日

第九回尾崎放哉賞募集開始しています



第九回尾崎放哉賞の募集が始まっています。

興味のある方は、下のリンクをクリックしてみてください。

尾崎放哉賞のサイト


ご応募、お待ちしています。


※前回より、一般・高校生の区別がなくなっています。

ただし、投句料については、高校生であることがわかれば半額の千円となり、投句数の制限もありません。詳細は、上記ホームぺージの「ご案内はコチラ」をクリックしてご覧ください。

(文:久坂夕爾)




2025年4月28日月曜日

最近のネット記事から

最近のネットの記事から、目に留まったものを紹介。


病気が進んでかなり痩せてきた晩年の放哉の句に、こういう句がありました。

肉がやせてくる太い骨である

骨ばったからだの「実感」、つまり「死」に近い「実感」としては、やはり骨は「太い」のでしょう。(これを頭で考えて「痩せた状態」を句にしようとすると「細い」などと書いてしまうところ。)そして、亡くなった人がこう書いたものを生きている私たちが見つけると、この「太さ」は、死者の「生」そのもののように思えるのは皮肉なことです。


著者の頭木 弘樹氏はカフカの著作をいくつか出されています。巻末には俳人九堂夜想氏との対談もあるようで、カフカのフィクションの使い方が好きな私にはなかなか興味を惹きます。ちなみに、カフカが俳句を書いているわけではなく、短詩・短文・短いアフォリズム文などを(カフカはこうした文章が多い)集めた書籍のようです。
頭木 弘樹編/中央公論新社


小森裕之という方のブログ。「自由律俳句誌きゃらぼく」の代表で「青穂」役員でもある三好利幸氏との出会いやそれをきっかけにした句作活動などが綴られています。私のようにマイペースで怠け者の創作者からすると、まぶしいですねえ。


最近は五七三の韻律で俳句を書いておられるマブソン青眼氏。この韻律のことを、氏はこう書いている。
 ヨーロッパ近代文学の詩歌は同じ長さの詩句(アレクサンドランなど)を重ね、一神教ならではの直線的な時間意識を表現する。五七五は仏教ならではの周期的な時間意識を表現する。それなら、五七三はやはり螺旋、アニミズムの時間意識であろう。
 本稿の前半でふれたオントロジー論を当てはめて言えば、対等な詩句の西洋長詩はもちろんナチュラリズムの世界観であり、五七五は万物の内面と外面をカテゴリー化するアナロジスム(題詠、有季定型のカテゴリー)、あるいはもっと自由な傾倒の「二重写し」を詠うアニミズム俳句の世界観が見られる。後者には本来、左右非対称の螺旋型の韻律のほうが合うのでは、と私は思う。

五七三の韻律が「螺旋型」なのかどうか、私の腑に落ちるには時間を要するのですが。。ただ、五七五の韻律はまるで柴犬のしっぽのようにくるんと元に戻ってしまう感覚を覚えることはあり、自由律のなかに五七五の韻律があると物足りなさを覚えることはありますね。この表現内容だったら、もっと口語の語尾に特有の、飛んだり跳ねたり黙り込んだりするニュアンスを生かしてもいいのではないか、最後を五文字で終わらせる必要はないのではないか、と。

万の春瞬きもせず土偶
土器の腰抱けば吹雪の熱さ
2024年句集「縄文大河」(本阿弥書店)


(文:久坂夕爾)


2025年3月30日日曜日

第8回 尾崎放哉賞決定!

 第8回 尾崎放哉賞が決定しています。


<一般の部>

尾崎放哉大賞

 生家の栗の木は貉に任せてある        信 典

春陽堂賞

 月を砕いて夜に染まり切らない川       松尾  貴

優秀賞

 悼むには明るすぎる星が流れる        石井 一草

 ビーチサンダルひとつ裏返って太平洋     一の橋世京

 白い靴退屈を蹴った汚れ           大山 まる

 どのテレビもガザの子が泣く電気屋      本山 麓草

 君がいない余白に花を植える         森下 紙魚

敢闘賞

 海月だらけ雨の街              大坪 有佑


【第八回尾崎放哉賞選者】

自由律俳句結社『青穂』役員:

  小山貴子、黒崎溪水、平山礼子、高木架京、平岡久美子、三好利幸


皆様受賞、おめでとうございます。

表彰式が五月の青穂大会にて行われます。

他の入賞句については、尾崎放哉賞のホームページにてご確認ください。

尾崎放哉賞


(文:久坂夕爾)

2025年2月24日月曜日

青穂55号が発行されました。


  


 青穂55号が発行されました。

画像は上から順に、表紙、自由律俳人の墨蹟(比呂)、青穂抄(伊藤風々選)。

目次より本号の内容
・新同人紹介
・同人・準同人作品
・私の感銘句
・青穂の窓(平山礼子選)
・エッセイ・評論
 記憶に残る俳人・俳句16        薄井啓司
 私と自由律俳句17           草場克彦
 三好利幸自由律俳句集Ⅵ鑑賞       楽遊原
 「ならドットFM」から③        小山貴子
 青穂第二句集より①           渡辺敬子選
 俳人阪本四方太④            小山貴子
 自由律俳人・和田光利の歩み(その二)  菅原誠
 旧会津藩士たちの「斗南藩」②      渡辺敏正
 「きまぐれ写俳日記51」        きむらけんじ
・一句鑑賞
・句会報
・同人新刊紹介
・そのほか
 麦秋欄、お知らせ、編集後記
・第十二回「青穂」全国大会(東京)のご案内


(文:久坂夕爾)


2025年1月13日月曜日

引っ越し

 


あけましておめでとうございます。


私事ですが、引っ越し中です。

昨年母が高齢者施設に入居したことに伴い、実家の整理、また、近く(車で5分くらい)に棲んでいた私が代わりに実家に移り住むことになりましてその作業、とバタバタする日々が続いております。引っ越しも業者に頼まずに自力で何往復もしながら。

思えば、これで引っ越しは何回目なんだろう、と数えてみたら、(フリーランスの時の住居兼事務所も含めば)13回目でした。今回は実家の荷物の整理が一番大変なのですが、普段(?)一番面倒臭いのは溜まった本の箱詰め・棚入れですねえ。引っ越しのたびに不要な本を売っているにもかかわらず、いつの間にか以前よりも増えているという。。。。

箱詰めしながら、ああ、これは面白かったなあ、とか、これまだ読んでいないなあ、とか、とっておくかどうしよう、などと思いつつ作業してしまうので、時間もかかるんですね。

上記写真は、そんな箱詰めのときにふと手に取った一冊。現代詩手帖2010年6月号、短詩型新時代ーー詩はどこに向かうのか。詩の商業誌は俳句・短歌への目配りがきちんとあるのですが、俳句・短歌の商業誌・結社誌はどうなんだろう、詩人は「詩・短歌・俳句」を短詩の3詩形としてとらえることも多いけれど、歌人・俳人はあまりそういうことを考えないのではないか、そんなことを思いつつ。

この記事に掲載された俳句の選は高柳克弘氏ですが、「私だったらこれを選ぶ」と高山れおな氏もゼロ年代の俳句100選をしており、確か詩歌梁山泊のサイトにあったはず。その高山れおな氏の選およびコメントがとても良かったことを覚えています。


(文:久坂夕爾)





























2024年11月12日火曜日

第八回尾崎放哉賞の締切が迫っています。今月30日必着です。

 

第八回尾崎放哉賞の締切が迫っています。

今月11月の30日が必着となります。

詳細は下記放哉賞のサイトでご確認ください。

尾崎放哉賞のサイト


たくさんの応募をお待ちしております。



2024年10月28日月曜日

青穂54号が発行されました。

 




青穂54号が発行されました。
画像は上から順に、表紙、自由律俳人の墨蹟(藤後左右)、青穂抄(伊藤人美選)。

目次より本号の内容
・新同人紹介
・同人・準同人作品
・私の感銘句
・青穂の窓(黒崎渓水選)
・エッセイ・評論
 私と自由律俳句16           黒崎渓水
 俳人阪本四方太③            小山貴子
 自由律俳人・和田光利の歩み(その一)  菅原誠
 「ならドットFM」から②        小山貴子
 「きまぐれ写俳日記50」        きむらけんじ
・一句鑑賞
・句会報
・同人新刊紹介
・そのほか
 麦秋欄、お知らせ、編集後記
・第八回尾崎放哉賞募集案内

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第八回尾崎放哉賞募集中です!。締め切は11月30日必着。

応募お待ちしております。下線部分をクリックしてください。


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(文:久坂夕爾)


2024年9月23日月曜日

詩人のエッセイ

 



 詩人・俳人のエッセイをときおり読みます。詩論や俳論は、どうも空中戦(観念的)になりがちで、それはそれでいいのですが、私には詩人・俳人が日々の暮らしのなかで詩や俳句とどうつながっているのか、のほうが興味があるようです。
 ただね、世間擦れしすぎているというか、もっというとテレビのお涙ちょうだい的な経験主義的・精神主義的なものも多くて、これはこれで読んでいるとつらいものがあります。詩人・俳人がこんな感想でいいのか、と思ってしまうこともあります。

写真の3点は、左から。長田弘「幼年の色、人生の色」、小津夜景「カモメの日の読書」、小笠原鳥類「吉岡実を読め!」。最近読んだおすすめ。3点目は評論といったほうが良いかも知れませんが。


長田弘はつい先年亡くなってしまいましたが、詩人にはめずらしく(?)エッセイの文章がいいです。みすず書房から詩集やエッセイが何冊も出版されていますね。みすず書房のような(詩歌ではない)専門出版社から詩人の書くものが複数出版されているのはめずらしいのではないでしょうか。みすず書房が好きな出版社となったきっかけは、なんといっても「チーズとうじ虫 16世紀の一粉挽屋の世界像」。中世でも古代であっても、人は生きて、その暮らしと世界や宇宙や技術というものは同じ平面でつながっているのだと思い知らされたような気がするのです。

小津夜景は、このサイトを訪れるような方でしたらご存じの方も多いはず。句集『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)で田中浩明賞を受賞。この句集、というよりも詩集(漢詩・短歌も収録しています)、は私も持っています。いつだったか、東京での文学フリマ(フリーマーケット)に顔を出した際、週刊俳句のブースの方に強く推されて買い求めたものです。先日ネット配信していた、芥川賞作家の吉村萬壱(「死者にこそふさわしい場所」など)との対談を見逃してしまって、惜しいことをしました。

小笠原鳥類は、現代詩の第一人者と目される方ですね。吉岡実もそうですが、ことばが先行して、しかも長い詩は基本的に好まないのですが、ただ、こういう方が詩をどう考えているか、吉岡実の詩をどう読んでいるか、はとても参考になりました。
「詩人たちはことばについてとても不勉強だ」、というのは私を含めその通りだな、と思いますね。俳人も同じく。また、「立原道造は決して『青春の詩人』(というようなカテゴリに入る詩人)などではない」「宗左近の文章はいい」という箇所は大きくうなづいてしまいました。

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第八回尾崎放哉賞募集中です!。締め切は11月30日必着。

応募お待ちしております。下記の下線部分をクリックしてください。


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(文:久坂夕爾)