第10回尾崎放哉賞の募集中です。
11月30日の消印有効、二句一組で投句料は2000円となっています。
また、高校生は半額で何句でも投稿できます。
詳細は以下のリンクをクリックしてください。
(文:久坂夕爾)
自由律俳句誌「青穂」同人のブログです。別途、青穂が運営するホームページ、尾崎放哉賞は、右側スリットにあるリンクより閲覧下さい。
第10回尾崎放哉賞の募集中です。
11月30日の消印有効、二句一組で投句料は2000円となっています。
また、高校生は半額で何句でも投稿できます。
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(文:久坂夕爾)
いつも訪問ありがとうございます。更新が滞っている今でも、1日平均200ビュー以上ありまして、ありがたいことです。今回は最後の記事、ということで、詩に関するごく個人的な感懐を述べてみたいと思っています。言わずもがな、とは思いますが、これから書こうとしているのは、久坂個人の意見や述解であって、青穂とはまったく関係ないことをお断りしておきます。
高校生の頃、文学部に所属していました。確か十数人部員はいましたが、本気で文学・詩が好きなんだなあ、と見えたのは一人だけでした。部誌とは別に、ともに同人誌を企画発行したりしましたが、そのK君もその後筆を折ります。「君には才能がある。俺の分まで頑張ってくれ」などと言われたけれど、うれしくなかったなあ。むしろなぜ辞めるのかと怒った覚えがあります。「いや、ここの詩句は少し安易だろ」などと気安く言い合えた詩友は、結局このK君だけでした。現代ではこういう批評も『悪口』のように聞こえてしまうんでしょうね、きっと。部内では作品を持ち上げられることも多かったけれど、居心地が悪いばかりで、結局幽霊部員みたいになってしまいました。この時の、求めるものが根本的に違う集団に所属することの落胆や居心地の悪さは、その後、俳句や詩のサークルに所属しようかと思ったときの大きな逡巡につながっています。そして、詩歌というジャンルはプロアマの境がはっきりせず、また、特に短歌俳句は流派という悪しきセクショナリズムを抱えていると知ったのは十年ほどあとのことです。(『文人俳句』ってなんだ!とか、俳句も短歌も同じ韻文(詩)だろう!とか、憤慨した覚えがあります。)
小説をやめ、詩だけ書いていた私が俳句も書き始めたのは、もっと単純で短いことばでなにか表現できないかと模索したことがきっかけですが、当初自由律俳句には、俳句にも、いい印象はありませんでした。放哉はともかく、山頭火の自己愛の強い(と私には感じられます。もちろん作品の良し悪しとは関係ありません)作風は敬遠していましたし、ネットでちらと見かけた結社の自由律俳句もどこか物足りないものが多い。「一行詩」と銘うって活動しようか、「中句」(宗左近の命名)としようか、迷っていたときに見つけたのが飯島翠壺洞という自由律作家。国会図書館で「層雲」のバックナンバーを漁って、こういう書き手がいるのなら現代の自由律俳句も悪くない、と思ったことを覚えています。
このとき感じた「物足りなさ」の原因は、散文的であること(意味偏重であること)と趣味的であること。前者はまだいいんです、目指す作風の違いだから(嫌いだけれど)。後者が困るのは、根本的な目的が違う(個人の愉しみやコミュニケーションが主目的になっている。共感するかどうかが主眼になることが多い。)こと。『自分の素直な気持ちを自由律俳句にして』とか『誰にでもわかりやすく自由なリズムで気持ちを伝える』などと謳ってある自由律のサイトを見ると、個人的にはかなり違和感があります。
この違和感について、いろいろ考えてみたことがあるのですが、多分、ことばで創作する方のなかにある、『「技術」「知識」「感性」への無意識の軽視』への違和感なのではないか、と思ったことがあります。それが正しい答えかどうかはわかりませんが、印象に残っていることがふたつあります。
ひとつめ。商業詩誌への投稿とインターネット(HP、ブログ)の2つを主軸に詩を作品発表していたころ、あるかたが同じようにネットに詩を発表していたのですが、その方ははっきりと明言していたのです、「私の好きなように書いて発表しているだけで、それに共感してくれる方だけを求めている。批評は望まない。」というような趣旨のことを。これにはびっくりした記憶があります。不特定多数に向かって発表しているにもかかわらず、この認識は何だろうと。(今では、私のようにびっくりする人のほうがたぶん少数派なのだろうという想像はいやでもつきます。)
ふたつめ。自分のブログで茨木のりこの「倚りかからず」だったか「自分の感受性ぐらい」だったかの詩を批判したことがありました。この方の他の詩に比べて散文的すぎて、ここには詩人の意見が目立つばかりだと。これに反発した方からメールが来たのですが、「詩人に怒られているようで目が覚めた」とか「感動した」という言葉があるばかりで、私の論点についての批判になっていなかったんですね。まあ、私はもともと散文的な詩が好きではないのですが(立原道造という詩人があるとき友人への手紙にこう書いています。『高見順なんて大嫌いだ。散文精神なんて死んでしまえ』と。。気持ちはよくわかります。)、「自分がそれをどう受け取ったか」だけで作品を見てしまうのはどうなんだろう、ともやもやした気分になったものです。作る立場に立っていないのではないかと。たとえば、たとえ日曜画家であっても「青空」を表現するために「青絵具で塗りつぶす」ことはしません。偉そうなこと書きましたが、私自身が常に迷うことでもあります。作品の出来不出来とか作風の違いなんて、これらに事柄に比べれば実はささいな問題なのではないかと考えることもあります。
「青穂」に入る際、見本誌を読んで、こういう方が書いているのなら少し安心だ、と思ったのは、きむらけんじさんと加藤邪呑さん。きむらさんの句は、共感性が高いので同人内では人気だと思いますが、私の評価はそこではなく、換喩の使い方が抜群にうまいからですね(結果的に共感性が増す)。加藤さんの句は、感覚的な正確さ。多分、「意味」だけをとろうとする方には難しく見え、「正確さ」を感じ取ろうとする方にはオーソドックスな表現に見えるはずです。摂津幸彦という俳句作家を難しく感じる方がいる(きっと『頭』で考えて読みすぎているのでは)のも同じ理由かもしれません。それから、ほぼ毎号のように載る小山代表の研究資料。これも同人誌にはめずらしいことです。
これは以前どこかのエッセイに書いた覚えがあるのですが、多くの人は、日常の言葉使いで多くの比喩や飛躍、フィクション表現などを使っているにもかかわらず、いざ「詩」を読むときは文章を読むように読んでしまう。映画も小説も音楽も、古今さまざまな技法技術を取り入れているにもかかわらず「詩」となるとそれらを否定してしまう。これらは、『書く』ハードルが低い「詩」の宿命かもしれません。ただ、現代短歌には大胆に「はなしことば」を取り入れてユニークなものがありますよね。「短歌を使って気持ちを伝え」ようと考えるのではなく「(気持ちを伝えることも含め)短歌に何ができるか」模索する新しい書き手がいるからでしょう。自由律俳句の誕生にも、結局は俳句という短い表現で何ができるか、という思いがいちばん最初にあったはずです。
自由律俳句に何ができるか。私が十年ほど書いてみた感想は、「俳句であっても、フィクションも物語性も十分扱える。」というものでした。定型ではかなりアクロバティックな言葉使いをしないと実現できないものです。もちろん、その先にあるものこそが主題ですが、私の力量がそれを描くのに足りているのかはわかりません。個人的には、上記に書いたことのほかには、もっと『話しことば』を取り入れてもいい、もっと身近な(でも個性的な)題材はたくさんあるはず、との思いがあります。
上述した、商業詩誌やネットで発表していたころ、もう三十年も前のことですが、ファンだと言ってくれた方(確かカメラマンの卵だと言っていました)から「なぜ詩を書くのですか」と聞かれた際、こう答えた覚えがあります。 「そのときそのときの、自分自身を含む世界そのものを、そのまま切り取っておきたい」と。今もそれは変わっていません。ビクトル・エリセ監督の映画「マルメロの陽光」をご存じの方は多いと思いますが、まさに、私がやっていること自体はこの映画に出てくる画家と同じだなあ、とつくづく思います。そして、人生に踏みつけられそうなときもありながら、詩はつまらないと言って小説ばかり読んでいた(講談社文芸文庫はかなり読破しました)時期もありながら、それでもまだ読みたい・書きたいと思わせる詩というものの不思議を思います。
最後に、物故ですが現代の自由律俳句作家のおすすめと、最近あまり詩歌を読んでいませんので、ここ数年で私が読んだ俳句以外の収穫を載せておきます。私の志向と近い方はご参考までに。長文失礼いたしました。
自由律俳句:飯島翠壺洞、高田弄山(クリックするとブログ記事が開きます)
詩:パウル・ツェラン詩文集/飯吉光夫訳(白水社)
そのほか:小林美代子「蝕まれた虹」(鳥有書林)
ゼーバルト/鈴木仁子訳「土星の環」(白水社)
小梅けいと/スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ原作
「戦争は女の顔をしていない」(KADOKAWA)
ダンセイニ/原葵訳「ヤン川の舟歌」(国書刊行会)
(文:久坂夕爾)
第九回尾崎放哉賞の締切は来月30日となっています。
詳細は下記放哉賞のサイトでご確認ください。
※ 高校生の部はなくなりましたが、「○○高校〇年 担当○○先生」と記載があれば、投句料は半額の1000円となり、何句でも投句できます。
メールでの投稿も受け付けています。
たくさんの応募をお待ちしております。
足のうら洗えば白くなる
流れに沿うて歩いてとまる
咳をしても一人
どこかに同じようなことを書いたかもしれませんが。。。尾崎放哉の、こういう「なんでもない瞬間をとらえ」た句は好きですね。「なんでもないこと」「とるにたりない当たり前のこと」のなかにこそ人の感情や心理や真実が隠れているものだと思います。山頭火は感情を言葉に刻印しているような作風ですが(だから放哉よりも共感しやすく人気もある)、放哉句には、そういうなんでもない瞬間の「動作」や「所作」が書かれているので、読む人を引き込む力が強いのだと私は考えています。
(文:久坂)
興味のある方は、下のリンクをクリックしてみてください。
ご応募、お待ちしています。
※前回より、一般・高校生の区別がなくなっています。
ただし、投句料については、高校生であることがわかれば半額の千円となり、投句数の制限もありません。詳細は、上記ホームぺージの「ご案内はコチラ」をクリックしてご覧ください。
(文:久坂夕爾)
第8回 尾崎放哉賞が決定しています。
<一般の部>
尾崎放哉大賞
生家の栗の木は貉に任せてある 信 典
春陽堂賞
月を砕いて夜に染まり切らない川 松尾 貴
優秀賞
悼むには明るすぎる星が流れる 石井 一草
ビーチサンダルひとつ裏返って太平洋 一の橋世京
白い靴退屈を蹴った汚れ 大山 まる
どのテレビもガザの子が泣く電気屋 本山 麓草
君がいない余白に花を植える 森下 紙魚
敢闘賞
海月だらけ雨の街 大坪 有佑
【第八回尾崎放哉賞選者】
自由律俳句結社『青穂』役員:
小山貴子、黒崎溪水、平山礼子、高木架京、平岡久美子、三好利幸
皆様受賞、おめでとうございます。
表彰式が五月の青穂大会にて行われます。
他の入賞句については、尾崎放哉賞のホームページにてご確認ください。
(文:久坂夕爾)

青穂55号が発行されました。
あけましておめでとうございます。
私事ですが、引っ越し中です。
昨年母が高齢者施設に入居したことに伴い、実家の整理、また、近く(車で5分くらい)に棲んでいた私が代わりに実家に移り住むことになりましてその作業、とバタバタする日々が続いております。引っ越しも業者に頼まずに自力で何往復もしながら。
思えば、これで引っ越しは何回目なんだろう、と数えてみたら、(フリーランスの時の住居兼事務所も含めば)13回目でした。今回は実家の荷物の整理が一番大変なのですが、普段(?)一番面倒臭いのは溜まった本の箱詰め・棚入れですねえ。引っ越しのたびに不要な本を売っているにもかかわらず、いつの間にか以前よりも増えているという。。。。
箱詰めしながら、ああ、これは面白かったなあ、とか、これまだ読んでいないなあ、とか、とっておくかどうしよう、などと思いつつ作業してしまうので、時間もかかるんですね。
上記写真は、そんな箱詰めのときにふと手に取った一冊。現代詩手帖2010年6月号、短詩型新時代ーー詩はどこに向かうのか。詩の商業誌は俳句・短歌への目配りがきちんとあるのですが、俳句・短歌の商業誌・結社誌はどうなんだろう、詩人は「詩・短歌・俳句」を短詩の3詩形としてとらえることも多いけれど、歌人・俳人はあまりそういうことを考えないのではないか、そんなことを思いつつ。
この記事に掲載された俳句の選は高柳克弘氏ですが、「私だったらこれを選ぶ」と高山れおな氏もゼロ年代の俳句100選をしており、確か詩歌梁山泊のサイトにあったはず。その高山れおな氏の選およびコメントがとても良かったことを覚えています。
(文:久坂夕爾)