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2020年3月28日土曜日

竹田の子守唄

勤めしょうとも子守はいやよ お主(しゅ)にゃ叱られ子にゃせがまれて 間に無き名を立てらるる

山家鳥虫歌にこんな歌がありましたが、
子守唄(正確には「守り子」歌ですか)にはこの手の「守り子」の歌が結構
あったらしく、そのひとつに竹田の子守唄があります。

フォークグループ「赤い鳥」が歌った「竹田の子守唄」
https://youtu.be/1IeuDyR3ax4

守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし
盆がきたとて なにうれしかろ 帷子(かたびら)はなし 帯はなし
この子よう泣く 守りをばいじる 守りも一日 やせるやら
はよもいきたや この在所(ざいしょ)越えて むこうに見えるは 親のうち


この背景にあるのは、
子守の辛さももちろんあるのですが、
口減らしに奉公に出された子守娘の悲哀です。

私は、この哀切なメロディが好きで、
よく口ずさんでいたものです。
原詞は、もっとあけすけで好きですね。
寺の坊さん、のくだりは「赤い鳥」の歌詞ではカットされていますが、
このカットは、自然に歌い伝わるものと、流行歌(テレビソング)との役割の違い
みたいなものを感じました。

1385hiroさんが歌う、原曲と「赤い鳥」バージョン
https://youtu.be/Uwd-_Rsh5WQ

この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら
ドシタイコリャ 聞こえたか

寺の坊さん根性が悪い
守子いなして 門しめる
ドシタイコリャ 聞こえたか

守が憎いとて 破れ傘着せて
可愛いわが子に 雨やかかる
ドシタイコリャ 聞こえたか

久世の大根飯 吉祥の菜飯
またも竹田の もんば飯
ドシタイコリャ 聞こえたか

盆が来たとて 正月来たて
難儀な親持ちゃ 嬉しない
ドシタイコリャ 聞こえたか

はよもいきたい あの在所(ざいしょ)越えて むこうに見えるは 親のうち
ドシタイコリャ 聞こえたか


赤い鳥の竹田の子守唄は、一時期「放送禁止歌」(業界の自主規制)となっていました。
ここら辺の事情は、森達也さんが書いていて、昔読んだことがあります。
自主規制のキーワードは猥褻、差別的用語(もしくは差別をにおわす言葉)、政治的思惑あたり。

愛知トリエンナーレや憲法九条を題材にした俳句に関するごたごたは
最近の出来事ですが、基本的にはその延長にあるのでしょう。
(この2つは、「上」に立つ人のつまらない個人的思惑にしか感じませんが)、
良くも悪くも、人の世とはつくづくそういうものなのでしょう。
「倫理」の儚さ、のようなもの。


(文:久坂夕爾)

2020年2月8日土曜日

山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)より

校注 浅野建二


九 こなた思へば千里も一里 逢はず戻れば一里が千里

相愛する男女の恋情を訴えたもの。元来、『李白詩集』巻六や、蘇東坡の「近ク別レテ容(かたち)ヲ改メズ、遠ク別レテ涕(なみだ)胸ヲ霑(うるお)ス、咫尺(しせき)相見ザレバ実ニ千里ト同ジ」の詩情に関連を有するもので、「禅林句集」や「天草版金句集」「日葡辞書」などにも散見する「咫尺千里」という成句が一般に流布するうちに、庶民的な恋愛歌謡に化したものと思われる。中世・近世の諸歌謡から現代歌謡に至るまで、きわめて累計歌の多い一首。

四九 蝶よ胡蝶よ菜の葉にとまれ とまりゃ名がたつ浮名たつ

上句は江戸初期の流行小歌か。西山宗因の句に「世の中よ蝶々とまれかくもあれ」。また明治「小学唱歌集」の「蝶々蝶々 菜の葉にとまれ 菜の葉に飽いたら 桜にとまれ」は、幕末・明治期の国学者、野村秋足(あきたり)の作と伝う。「止まる」「泊る」掛詞で、「とまりゃ」は「一夜共に寝ると」の意。上句と下句の掛け合い。

五一 君は八千代にいはふね神の あらぬかぎりは朽ちもせん

七八 こなた百までわしゃ九十九まで 髪に白髪の生ゆるまで

一三七 勤めしょうとも子守はいやよ お主(しゅ)にゃ叱られ子にゃせがまれて 間に無き名を立てらるる

種彦本、「志摩」五首の内の最後に掲げる。前出の一三三番(伊勢)に同じく七七七七・七五形で各地に多い子守娘のつらさをのべたもの。「無き名」は無実の評判。いわゆる「子守くどき」の一種。例えば岐阜地方の子守唄「千両くれても守奉公いやじゃ、親にゃ叱られ子にせめられて、人に楽じゃと思われて、何が楽じゃな夜昼追んで、朝は七つ(午前四時)に起こされて」、三重県員弁(いなべ)郡子守唄「お主に叱られ、子に責められて、どこで立つとやら、わしが身は」など。

一六三 都まさりの浅草上野 花の春風音冴える

一首は。京都の賑わいにもまさる江戸の浅草や上野の花見風景。そよぐ春風の音まで澄み切った感じという。芭蕉の名句「花の雲鐘は上野か浅草か」の発想を踏まえた、江戸の新民謡調ともいうべきか。


人情、リズム、機知の勝った言葉遊び、世俗的教訓、祝い唄。
(九)のように、言葉が独り歩きして形骸化してしまったようなものから、(一三七)のような、非常にストレートで逆に新鮮に見える心情まで。

私などは、現代の流行歌、ポピュラーソングと基本的に変わらない印象を受けるのですが、どうでしょうか。
スマップの歌に、「ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン」という歌詞がありましたが、ふと思い浮かべ、ここに並べても違和感がないな、と思いました。現代風で小綺麗ですが、機知が勝っているところなどは。


そのほか、いくつか興味をひかれたことを。

本書は、自序にこう記されているようです。
(前略)世の風俗として、花に啼く鶯、水に住む蛙の声いずれか哥(うた)を詠まざらんと古事に有るよしして、山家鳥虫歌(さんかちょうちゅうか)と名付けて、(後略)
。。。。どこかで読んだことのある文章です。
もうひとつ。
集中、一番多いのが、七七七五形(いわゆる小唄調)で78%。次が七五七五形(今様?私には不勉強でよくわかりませんが)。次が、五七五七五形。
七音が先行していることが多いのは、やはりというか、面白い事実です。

(文:久坂夕爾)