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2021年7月15日木曜日

ことばというもの

 ことばというのは、どうしても「日々、もしくは、その場その場で消費されるもの」という側面を持っていて(むしろこちらの側面のほうが大きいのですけれど。古代においてはまた違ったのではないか、なあんて想像すると素人ながらちょっと楽しいです。)、これに対する疑問やとまどいを表明する詩歌も少なからずあります。

 コミュニケーションや社会への合目的性をはなれ、「ことば」そのものについて書かれた有名な詩にこういうものがありました。


言葉なんかおぼえるんじゃなかった

言葉のない世界

意味が意味にならない世界に生きてたら

どんなによかったか


あなたが美しい言葉に復讐されても

そいつは ぼくとは無関係だ

きみが静かな意味に血を流したところで

そいつも無関係だ


あなたのやさしい眼のなかにある涙

きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦

ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら

ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう


あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか

きみの一滴の血に この世界の夕暮れの

ふるえるような夕焼けのひびきがあるか


言葉なんかおぼえるんじゃなかった

日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで

ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる

ぼくはきみの血のなかにたったひとりでかえってくる


 田村隆一「帰途」


 ある小説家が、「言葉なんか読みたくない時期がある」とどこかで書いていて、私とは多分「読みたくない理由」は違うでしょうが、私にもそういう時期があると共感したことがあります。美術館で絵を見ていた時、ここに言葉がなくてとてもほっとした、また、言葉を使わない絵画というジャンルが(創作者として)とてもうらやましい、と思ったことが何度かあります。

 不純物だらけ・イメージの固着化(俳句の季語というのは良くも悪くもそれを利用したもののように思えます)ということばの性質を「前提として存在する」と考えている方とそうでない方の考え方や作品には当然違いがでてくると思っています。そういうものでもあり、深刻な問題でもあり。

自分の書いている文章も詩句も、特に観念的な言い回しをしなければならない場合、本当に私が感じたことなのか、乖離していないか、心配になることがありますね。


(文:久坂夕爾)

2020年6月28日日曜日

金子兜太・田村隆一の対談

ようやく読んだ、河出書房新社「田村隆一 20世紀詩人の肖像」より
金子兜太・田村隆一の対談の中で、興味のひかれた部分を。

(田村)
ただ、俳句の持っている僕の言うほんとうの意味での即興性というのは、「私」をこえたところにあるんだから。「私」をこえた表現というものを支える俳句の知的な凄みというのかな。そういったものがもっとゆるやかな広がりを持てれば、僕はいいとおもうんですよ。
(ー略ー)
(金子)
僕は日常性を強調しているんです。……そうなんですよ、たしかに。そこを土台に自在に飛翔すれば、言霊とか、幻想とか、想像の世界とか、そういうものを迎え入れることもできる。


(田村)
言葉自体が大きな喩ですからね。言葉というのは比喩なんですよ。(略)季語はその大きな喩のなかの喩を機能させるための喩であって、要するに僕たちは暗喩をいろいろ使う、それはいろんな形で使う、詩人というものは。しかし、実はただ暗喩を使うために使っているんじゃなくて、大いなる直喩を発見したいために暗喩を使っているんだ、と言ったことがあるんです。
(ー略ー)
(金子)
それは同感だな。若い連中は言語論の入門書なんかを読んでその受け売りをやるんだな。言葉の一人歩きだけやるんですよ。


金子兜太のほうが聞き役に回ることが多い、という印象を受けましたが、
これは座談会ですので、たぶん編集の仕方によるのでしょう。
「季語は喩である」「季語は固定化されたルールではなく、社会や地域や時代の変化によって変わっていくもので、俳句の世界を広げる入口のようなもの」という部分は、やはりそうですよね、という感想。

荻原井泉水の「詩と人生 自然と自己と自由と」に、
芭蕉の「物と我と二つになりて其情誠にいたらず、私意のなす作意なり」に関しての記述がありますが、上記座談会でも「物」と「我」との関係について話題に上っていました。
厳密に本意を追うと矛盾や飛躍に見えるところもあるのですが、思っていることがフラットに出て来るところが座談会の面白さですね。

(文:久坂夕爾)