第6回尾崎放哉賞は募集が始まっています!
締め切りは11月30日。
尾崎放哉賞のページ ←ここをクリック
自信がないとか受賞作の作風が合わないとか、いろいろ考えこんでしまう若い人も大勢いるかもしれませんが、最低二句だけですので、まずは「発表するつもりで作品を書いて送る」癖をつけるために利用してもいいと思ってます。賞というのはそういうものでもある。(あくまでも私・久坂の個人的見解です。かつ個人的経験です。選者の方にとってはたいへん失礼な発言かもしれませんが。)
ご応募お待ちしております。
第6回尾崎放哉賞は募集が始まっています!
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自信がないとか受賞作の作風が合わないとか、いろいろ考えこんでしまう若い人も大勢いるかもしれませんが、最低二句だけですので、まずは「発表するつもりで作品を書いて送る」癖をつけるために利用してもいいと思ってます。賞というのはそういうものでもある。(あくまでも私・久坂の個人的見解です。かつ個人的経験です。選者の方にとってはたいへん失礼な発言かもしれませんが。)
ご応募お待ちしております。
感情やら意見やら、というものは、自分のなかから自然にたちあがってくるものではなく、それのきっかけ・芯になるようなものがかならずあると思っています。何を見たのか、何をどうみたのか、感じたのか。人間の感情や意見は結構似通っていますが(だから「共感」や「季語によるイメージの共振」が生まれるのですが)、これらは個性的です。
ということで、本誌前号から、ちょっと面白い素材、ちょっと面白い見方・感じ方(認識)があると思われるものを選んでみました。
作者はこの句を作る際、ことばの奥に何を見ていたんだろう、何を感じていたんだろう、と想像するのが面白い。句として成功しているかどうか、は目利きのかたの判断にゆだねるとして。卑近な素材から庶民感情を描く、散文的、という意味で川柳に近いものもあります。もっとも、現代は川柳・俳句の区別は結構あいまいで、区別の必要はないという意見もあるようです。
肉豆腐ワシントン広場には風花 伊藤清雄
筋トレしてきた昨日お父さんが死んだの 鈴木しのぶ
入り江は食い意地を張る 早舩煙雨
鳥籠の子らは闇のピエロの仕業です おおひさ悦子
おてんとさまちかみちをしてずるい 田畑剛
止めたところから夢を再生する 黒崎渓水
音を殺して熟柿を啜った 𠮷田敷江
人嫌い烏瓜の宙ぶらりん 高木架京
かくれんぼ鬼ばかり増えていく秋の野 平岡久美子
バラ亭開店藤島恒夫のチンドン屋(※) 草場克彦
身のうちに烽火をあげる分身Z 奥野立日十
暗闇が乗車してくる無人駅 水上百合子
すきにしたらええやんか月夜の案山子 伊藤人美
基地の献立は既に侵略されていた 福田和宏
今朝もまず猫じゃらしの会釈 吉多紀彦
前へならえの前は極道になりました きむらけんじ
象が足つっこんで萩あふれるバケツ 小山幸子
野薊は空と海との表面張力 加藤邪呑
曇り空どこまでもあんたのせい 小山貴子
※藤島恒夫 おそらくですが、正しくは藤島桓夫(たけお)だと思われます。演歌歌手。代表曲は「月の法善寺横丁」 wikipediaより参照。
「死んだの」「ずるい」「なりました」「あんたのせい」。せきしろ氏の自由律俳句でも感じることですが、口語の語尾のニュアンスを生かせるのは自由律俳句の親しみやすさでもあるでしょうね。
(文:久坂夕爾)
自由律俳句のコーナー(「らじおと放哉と山頭火と」青穂・小山代表も出演)があった
TBSラジオ「伊集院光とらじおと」が3月で終了していたようですね。
昼の番組なので、仕事の関係で私は一度も聞く機会はなかったのですが、
先日たまたまこのニュースを知りました。
youtubeにも一部配信されているようです。
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もしかしたら、このブログで紹介したことがあったかもしれませんが、
小説家・町田康氏が山頭火を題材に書いていました。
町田康氏は、
youtubeで「パンク山頭火ラヂオ」なるものも発信しています。
町田康現代語訳「宇治拾遺物語」/日本文学全集08 河出書房新社
がとても面白いと聞いて以前買ったのですが、恥ずかしながらいまだに積読のまま。
(文:久坂夕爾)
詩人であり俳人でもある清水哲男さんがお亡くなりになりました。私にとって、さまざまなものへの「入口」になってくれた方でした。
「チャーリー・ブラウン」戦後名詩選Ⅱ/思潮社
さらば夏の光よ男匙あらう 句集「匙洗う人」/思潮社
(文:久坂夕爾)
インターネットで面白い記事を見つけたのであげておきます。
◆第65回岸田國士戯曲賞に寄せて 柳美里
https://genron-alpha.com/gb065_02/
他人の作品を選評するとはどういうことか、文学とは何の上になりたっているか、文芸ジャーナリズムとは何か。出版社・作家どちらの味方か、という表面的なことではなく、考えさせられることの多い文章です。
文学で年齢(経験年数)は関係ない。創作者も生活者であって、文学はその上に成り立っている。この2点を言及している前後は特に。
柳美里氏といえば、小説「JR上野駅公園口」が話題になりましたね。また、文中、高樹のぶ子氏の発言が引用されていました。たしか十代の頃、小説「光抱く友よ」を読んだことがあります。
◆デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)(無意識下の脳の活動)について
DEGITAL DETOX
https://digitaldetox.jp/column/dmn_sanjyo/
「科学技術情報発信・流通総合システム」(J-STAGE)
https://www.jstage.jst.go.jp/static/pages/JstageOverview/-char/ja
シュルレアリスムを思い起こしました。
シュルレアリスムとは、わけのわからない(シュールな)ものを描くということではなく「自動筆記」などに象徴されるように、無意識下での意識を掘り起こす芸術活動だったと記憶しています。
付記したJ-STAGEは、専門家の論文を読むことが出来るサイト。
インターネットが発達して、こういう専門知のデータベースが無料で閲覧できる。しかも、私のような素人でもgoogleで検索してすぐに表示される。
先日は別のデータベースで、日本における過去の識字率に関する論文を読みました。識字率を{①自分の名前を書けない}{②自分の名前を書ける}{③物語などを読んで理解できる}の3段階に分けて、江戸時代あたりからの公文書をもとに分析したもの。
昭和20年代でも①の方はいたことは知っていましたが、明治時代のある地方では③の方は約30%にすぎなかったようです。江戸時代の日本が、『多くの人民』が物語なども楽しむことが出来る『世界に冠たる文化国家』だった、というようなよくある言説はちょっと眉唾かもしれません。自分の所属する領域・団体をひいきしたがる普遍的心情が、いつのまにか事実を捻じ曲げるかもしれないという、これもありがちなことです。からだの感覚がもたらす「イメージ」と、あたま(こころ)が勝手に世間から引用した「イメージ」は分けないといけない、後者には(専門知による)裏付けが必要、ということだと思います。
(文:久坂夕爾)
第4回尾崎放哉賞が決定しました。
入賞句を一部紹介します
<一般の部>
◆尾崎放哉大賞
蝉時雨浴びて秘密基地の入り口 埼玉県 大川 久美子
◆春陽堂賞
選ばなかった道が交わる 京都府 伽 瑤
◆優秀賞
二年会えなかった父の薄いまぶた 愛知県 木村 恵子
レモンどこまでころがる冬陽の片隅 福岡県 重富 佐代子
年ごとの色を重ね私の海が凪ぐ 福岡県 丹村 敦子
レシートを栞にして読み終えた 岡山県 堀 将大
旅の空何も決めず酔っている 神奈川県 野谷 真治
◆敢闘賞
雪の中で目覚めたよな祖母のまつ毛 東京都 すずめ 園
<高校生の部>
◆最優秀賞
ページをめくる音はしだいに雨と重なった
群馬県立伊勢崎興陽高等学校 細井 美涼
◆優秀賞
教室には卒業しないままの思い出
群馬県立伊勢崎興陽高等学校 峯崎 沙弥香
クレヨンでかいた青空のうそ
群馬県立伊勢崎興陽高等学校 松村 にぃな
一人の教室から見る私だけの空
三重県立久居高等学校 石井 菜々美
今日の生き方、誰かのお古
群馬県立伊勢崎興陽高等学校 鈴木 彩
逃げ出したくて 真夜中の月に相談する
東筑紫学園高等学校 岩下 空依果
すれ違う君から春になる
愛知県立旭丘高等学校 渡邉 美愛
思いを投げ込む 切手の味が舌に残る
静岡県立静岡高等学校 榑林 優成
黒い海に落ちていく片羽の飛べない蝶
群馬県立伊勢崎興陽高等学校 細川 華伽
俺達の仮に生きて行ける秋風
埼玉県立特別支援学校 坂戸ろう学園 菅井 陽生
あの日に飛んだくつはもうない
群馬県立伊勢崎興陽高等学校 長井 遥愛
風がおとすものを拾ふている
あらうみのやねやね
麥がのびる風の白猫
闇がおつかぶさる墓の火を焚く
抱く子がいない家にもどつて來た
椿さきくづれて墓石の字をほる
岩に草生ふる道が涼しくなる
山の宿は梅干しほしてきりぎりす
女も稲追うて來る釣橋
産れ來て赤坊ねむりつづける
埋立の草たける晝の波
冬の夕焼け淋しい指が生えた
土にしむ日をほりにくる
雲ひかり雨ひかり祭りの太鼓
新月に木の芽が暗い藁家
地にたぎる雨となるまで土うちやまず
夕陽さんらん野の人一人
ふらここ叢書「河本緑石作品集4 層雲」/河本緑石研究会 より抜粋
私の非力な鑑賞眼ですからあてにはなりませんが、「土」や「火」や「水」といった単純な題材が多いと感じたことと、(自身を含めた)対象を見ようとする力強い「眼」を感じる句群、という印象でした。「対象物」+動詞、+形容詞、というかたちをとるものが私の目に残ったからだと思います。
たとえばこんな詩も、河本緑石という作家の方向性を見定めるのに役に立つかもしれません。同じく俳誌「層雲」に掲載された詩です。
顔
顔、顔
顔面がくもの巣で
赤坊がそこに巣食っている
再び草原より N(ある情感)
私をささへてくれる力が
どれも萎えてしまつた
私はすべなく、海底に沈んだなまこのやうに
水ぶくれした身體から
細い無數の足を伸べ
しきりに精子を水に浮べる
時々起る海上の波の波動が
海底の砂をおしつけて
死にかかった私の身體を
折り曲げやうとするのだ
(文:久坂夕爾)
ちょっとした昔話です。
高校生の頃、好意をもっている女の子がいたのですが(付き合うまでには至らず)、その子にある日、こんなことを言ったのを覚えています。
「そんな人だとは思わなかった」と。
すると、その子はこう切り返してきたのです。
「それはあなたが勝手に私をイメージしていただけのことでしょう」と。
彼女の発言をどう感じたのかは覚えていませんが、まだ高校生ですからねえ、当時の私はきっとショックだったのでしょう。今でも覚えているくらいですから。
彼女が倫理的に正しくないことをした、とか、そういうことではなかったと思います。完全に私の、彼女はそういう言動をしないだろう、という思い込みから来た発言で、思い込みであると気が付いたのも、もっと後になってから。もっといえば、「そういう言動をするかしないか」という私の判断基準を、一般的な倫理基準のように扱う、という二重の意味で恥ずかしいことを私はしていたわけです。
つまり、徹底的に彼女の発言のほうが正しいわけで。私の発言はもう、どうしようもないものですが。
ただ、その「どうしようもなさ」は結構多くの人にあるもののように思うのです。どうしようもないものを、裁くでもなく嘆くでもなく(それは「社会性」を「人間の現実」より上位のこととして観てしまうことに繋がるのではないかと。娯楽系の作品にはありがちですが。「いい人なんだけど〇〇〇」のような物言いも、この2つを同じ土俵で見てしまっているように思えて好きではありません。社会生活を営む上での規範と、人間性、とを順位づけて考えてはいけないでしょうね。)、ただ見続けること。
そんなことを思い出したのは、最近、こういう小説を読んだからでしょうか。
吉村萬壱「死者にこそふさわしいその場所」
帯にはこうあります。
折口山に暮らすのは……
・セックスの回数を記録する愛人
・徘徊癖のある妻を介護する老人
・アパートのドアが開きっぱなしの裸男
・朝どうしても起きられなくなってしまった女
・困った人の面倒を見たがる聖職者
どうしようもない人たちね
(文:久坂夕爾)