風がおとすものを拾ふている
あらうみのやねやね
麥がのびる風の白猫
闇がおつかぶさる墓の火を焚く
抱く子がいない家にもどつて來た
椿さきくづれて墓石の字をほる
岩に草生ふる道が涼しくなる
山の宿は梅干しほしてきりぎりす
女も稲追うて來る釣橋
産れ來て赤坊ねむりつづける
埋立の草たける晝の波
冬の夕焼け淋しい指が生えた
土にしむ日をほりにくる
雲ひかり雨ひかり祭りの太鼓
新月に木の芽が暗い藁家
地にたぎる雨となるまで土うちやまず
夕陽さんらん野の人一人
ふらここ叢書「河本緑石作品集4 層雲」/河本緑石研究会 より抜粋
私の非力な鑑賞眼ですからあてにはなりませんが、「土」や「火」や「水」といった単純な題材が多いと感じたことと、(自身を含めた)対象を見ようとする力強い「眼」を感じる句群、という印象でした。「対象物」+動詞、+形容詞、というかたちをとるものが私の目に残ったからだと思います。
たとえばこんな詩も、河本緑石という作家の方向性を見定めるのに役に立つかもしれません。同じく俳誌「層雲」に掲載された詩です。
顔
顔、顔
顔面がくもの巣で
赤坊がそこに巣食っている
再び草原より N(ある情感)
私をささへてくれる力が
どれも萎えてしまつた
私はすべなく、海底に沈んだなまこのやうに
水ぶくれした身體から
細い無數の足を伸べ
しきりに精子を水に浮べる
時々起る海上の波の波動が
海底の砂をおしつけて
死にかかった私の身體を
折り曲げやうとするのだ
(文:久坂夕爾)
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