詩人であり俳人でもある清水哲男さんがお亡くなりになりました。私にとって、さまざまなものへの「入口」になってくれた方でした。
著書を通じて、近代詩の抒情に慣れきっていた私に、現代詩の面白さに気づかせてくれた方でした。存命の詩人ではじめて好きになった方でもあり、また俳句への造詣も深く(俳句歴のほうが長かったように思います)、俳句の読み方を教えてくれた方でもあり、その「増殖する俳句歳時記」は俳句史に残るものでしょう。※増殖する俳句歳時記には、青穂同人のきむらけんじさんの句が一句掲載されています。他、自由律俳人では、尾崎放哉・種田山頭火・橋本無道・栗林一石路・松尾あつゆき・住宅顕信。
直接お会いしたのは1度だけ。横浜詩人会での講演でいらしたときに、二言三言交わした程度です。小説・詩・短歌・俳句の総合投稿誌「抒情文芸」で選者をされていた際は、何度も私の詩を選んでいただきました。苦言を呈されたことも、素晴らしいとほめていただいたことも両方覚えています。私のホームページで、掲載詩集不明として詩を紹介したことに対してメールでお礼が来て、「いいかげんな男ですから」と書いてあったことも忘れられません。謙虚さからではなく、多分ご自身のことを本当にそう思っていたのでしょう。
日常のなかで忘れがちな、けれど確かに自分のなかにある、ふとした瞬間の自意識のその苦さ。清水哲男という詩人を思い出すとき、よく考えるのはその苦さです。近代の抒情詩は自己陶酔的甘さに流されがちですが、その対極にある、けれど確かに平易な抒情を貫いている、と私は思っています。
詩集は多数ありますが、私のお気に入りは、「スピーチ・バルーン」「雨の日の鳥」「東京」「夕陽に赤い帆」。句集に「匙洗う人」「打つや太鼓」。俳句誌「俳句界」の編集長でもあったようです。詩歌文学館賞、萩原朔太郎賞、三好達治賞、丸山薫賞。
浅黒い肌、痩身のジーンズ姿を思い浮かべます。ビールが好きで野球が好きで、詩のなかではときおりべらんめえ調になる。もうどこにもいないのですね。ショックです。
詩集は多数ありますが、私のお気に入りは、「スピーチ・バルーン」「雨の日の鳥」「東京」「夕陽に赤い帆」。句集に「匙洗う人」「打つや太鼓」。俳句誌「俳句界」の編集長でもあったようです。詩歌文学館賞、萩原朔太郎賞、三好達治賞、丸山薫賞。
浅黒い肌、痩身のジーンズ姿を思い浮かべます。ビールが好きで野球が好きで、詩のなかではときおりべらんめえ調になる。もうどこにもいないのですね。ショックです。
後退する。
センター・フライを追って、
少年チャーリー・ブラウンが。
ステンゲル時代の選手と同じかたちで。
センター・フライを追って、
少年チャーリー・ブラウンが。
ステンゲル時代の選手と同じかたちで。
これは見なれた光景である。
後退する。
背広姿の僕をみとめて、
九十歳の老婆・羽月野かめが。
七十歳のときと同じかたちで。
背広姿の僕をみとめて、
九十歳の老婆・羽月野かめが。
七十歳のときと同じかたちで。
これも見なれた光景である。
スヌーピーを従えて、
チャーリーに死はない、
羽抜鶏を従えて、
老婆に死はない。
あまりに巨大な日溜りのなかで紙のように、
その影は、はじめから草の根に溶けているから。
チャーリーに死はない、
羽抜鶏を従えて、
老婆に死はない。
あまりに巨大な日溜りのなかで紙のように、
その影は、はじめから草の根に溶けているから。
そんな古里を訪ねて、
僕は、二十年ぶりに春の水に両手をついた。
水のなかの男よ。それも見慣れぬ……
君だけはいったい、
どこでなにをしていたのか。
どんなに君がひざまずいても、
生きようとする影が、草の高さを超えた以上、
チャーリーは言うだろう。
羽月野かめは言うだろう。
ちょっと、そこをどいてくれないか。
われわれの後退に、
折れ曲がった栞をはさみ込まれるのは、
迷惑だから、と。
僕は、二十年ぶりに春の水に両手をついた。
水のなかの男よ。それも見慣れぬ……
君だけはいったい、
どこでなにをしていたのか。
どんなに君がひざまずいても、
生きようとする影が、草の高さを超えた以上、
チャーリーは言うだろう。
羽月野かめは言うだろう。
ちょっと、そこをどいてくれないか。
われわれの後退に、
折れ曲がった栞をはさみ込まれるのは、
迷惑だから、と。
「チャーリー・ブラウン」戦後名詩選Ⅱ/思潮社
詩集「東京」あとがきより
ひとりの、ささやかな表現者として生き続けるということは、たえず自己の空虚に突き当たりつづけるということでもある。その空虚さのなかで、空虚そのものを対象化すべく努力するという作業にしがみつくことの意味を、空虚の側から説明させれば、なにがしかの好意的な解答も出てくるのであろう。
人を詩にいざなうものは、おそらくはその種の解答を半ば本能的に求めている心根から発していると思われる。しかし、現在の自己が過去の自己からは連続的に到達できない極限点であるのだとすれば、決して詩にすることができないものこそが、実は自己の空虚そのものでなければならないはずなのであった。(後略)
ひとりの、ささやかな表現者として生き続けるということは、たえず自己の空虚に突き当たりつづけるということでもある。その空虚さのなかで、空虚そのものを対象化すべく努力するという作業にしがみつくことの意味を、空虚の側から説明させれば、なにがしかの好意的な解答も出てくるのであろう。
人を詩にいざなうものは、おそらくはその種の解答を半ば本能的に求めている心根から発していると思われる。しかし、現在の自己が過去の自己からは連続的に到達できない極限点であるのだとすれば、決して詩にすることができないものこそが、実は自己の空虚そのものでなければならないはずなのであった。(後略)
さらば夏の光よ男匙あらう 句集「匙洗う人」/思潮社
(文:久坂夕爾)
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