お知らせ

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2022年2月27日日曜日

第5回尾崎放哉賞発表

 第4回尾崎放哉賞が決定しました。


第5回尾崎放哉賞入賞作品



入賞句を一部紹介します

<一般の部>


◆尾崎放哉大賞

  蝉時雨浴びて秘密基地の入り口     埼玉県 大川 久美子

◆春陽堂賞

  選ばなかった道が交わる       京都府 伽 瑤

◆優秀賞

  二年会えなかった父の薄いまぶた   愛知県 木村 恵子

      レモンどこまでころがる冬陽の片隅  福岡県 重富 佐代子

  年ごとの色を重ね私の海が凪ぐ    福岡県 丹村 敦子

  レシートを栞にして読み終えた    岡山県 堀 将大

  旅の空何も決めず酔っている     神奈川県 野谷 真治

◆敢闘賞

  雪の中で目覚めたよな祖母のまつ毛  東京都 すずめ 園


<高校生の部>

◆最優秀賞

  ページをめくる音はしだいに雨と重なった 

         群馬県立伊勢崎興陽高等学校 細井 美涼

◆優秀賞

  教室には卒業しないままの思い出

         群馬県立伊勢崎興陽高等学校 峯崎 沙弥香

  クレヨンでかいた青空のうそ

         群馬県立伊勢崎興陽高等学校 松村 にぃな

  一人の教室から見る私だけの空

         三重県立久居高等学校 石井 菜々美

  今日の生き方、誰かのお古

         群馬県立伊勢崎興陽高等学校 鈴木 彩

  逃げ出したくて 真夜中の月に相談する

         東筑紫学園高等学校 岩下 空依果

  すれ違う君から春になる

         愛知県立旭丘高等学校 渡邉 美愛

  思いを投げ込む 切手の味が舌に残る

         静岡県立静岡高等学校 榑林 優成

  黒い海に落ちていく片羽の飛べない蝶

         群馬県立伊勢崎興陽高等学校 細川 華伽

  俺達の仮に生きて行ける秋風

         埼玉県立特別支援学校 坂戸ろう学園 菅井 陽生

  あの日に飛んだくつはもうない

         群馬県立伊勢崎興陽高等学校 長井 遥愛


2022年2月11日金曜日

青穂43号が発行されました

 






青穂43号が発行されました。
画像は、表紙(戸田勝画)、青穂抄(平山礼子選)、色紙(荻原井泉水)

目次より本号の内容
・新同人紹介
・同人作品
・私の感銘句
・青穂の窓(高木架京選)
・エッセイ・評論
 記憶に残る俳人・俳句4         後谷五十鈴 おおひさ悦子
 私と自由律俳句4            薄井啓司
 吉多紀彦句集「ふりむいたねこ」を読んで 平岡久美子
 吉多紀彦句集鑑賞            久光良一
 きむらけんじ「きまぐれ写俳日記39」
・一句鑑賞
・句会報
・そのほか
 同人新刊案内、お知らせ、同人情報、編集後記


「記憶に残る俳人・俳句」という面白い企画が始まっています。
平成令和の自由律俳人の、多様な作風のラインアップはなかなか触れる機会がないので、
私は楽しみにしています。


敬称略
(文:久坂夕爾)

2022年1月29日土曜日

河本緑石句抄

風がおとすものを拾ふている

あらうみのやねやね

麥がのびる風の白猫

闇がおつかぶさる墓の火を焚く

抱く子がいない家にもどつて來た

椿さきくづれて墓石の字をほる

岩に草生ふる道が涼しくなる

山の宿は梅干しほしてきりぎりす

女も稲追うて來る釣橋

産れ來て赤坊ねむりつづける

埋立の草たける晝の波

冬の夕焼け淋しい指が生えた

土にしむ日をほりにくる

雲ひかり雨ひかり祭りの太鼓

新月に木の芽が暗い藁家

地にたぎる雨となるまで土うちやまず

夕陽さんらん野の人一人


ふらここ叢書「河本緑石作品集4 層雲」/河本緑石研究会 より抜粋


私の非力な鑑賞眼ですからあてにはなりませんが、「土」や「火」や「水」といった単純な題材が多いと感じたことと、(自身を含めた)対象を見ようとする力強い「眼」を感じる句群、という印象でした。「対象物」+動詞、+形容詞、というかたちをとるものが私の目に残ったからだと思います。


たとえばこんな詩も、河本緑石という作家の方向性を見定めるのに役に立つかもしれません。同じく俳誌「層雲」に掲載された詩です。



顔、顔

顔面がくもの巣で

赤坊がそこに巣食っている



再び草原より N(ある情感)


私をささへてくれる力が

どれも萎えてしまつた

私はすべなく、海底に沈んだなまこのやうに

水ぶくれした身體から

細い無數の足を伸べ

しきりに精子を水に浮べる

時々起る海上の波の波動が

海底の砂をおしつけて

死にかかった私の身體を

折り曲げやうとするのだ


(文:久坂夕爾)


2021年12月26日日曜日

青穂42号よりお知らせなど


青穂42号よりお知らせなど転載。

上:代表のならどっとFM出演記事

下:同人新刊案内

  「自由律俳句集 ふりむいたねこ」 吉多紀彦(喜怒哀楽書房)



(文:久坂夕爾)


2021年12月12日日曜日

どうしようもない人たちね

ちょっとした昔話です。 


高校生の頃、好意をもっている女の子がいたのですが(付き合うまでには至らず)、その子にある日、こんなことを言ったのを覚えています。

「そんな人だとは思わなかった」と。

すると、その子はこう切り返してきたのです。

「それはあなたが勝手に私をイメージしていただけのことでしょう」と。


彼女の発言をどう感じたのかは覚えていませんが、まだ高校生ですからねえ、当時の私はきっとショックだったのでしょう。今でも覚えているくらいですから。


彼女が倫理的に正しくないことをした、とか、そういうことではなかったと思います。完全に私の、彼女はそういう言動をしないだろう、という思い込みから来た発言で、思い込みであると気が付いたのも、もっと後になってから。もっといえば、「そういう言動をするかしないか」という私の判断基準を、一般的な倫理基準のように扱う、という二重の意味で恥ずかしいことを私はしていたわけです。


つまり、徹底的に彼女の発言のほうが正しいわけで。私の発言はもう、どうしようもないものですが。

ただ、その「どうしようもなさ」は結構多くの人にあるもののように思うのです。どうしようもないものを、裁くでもなく嘆くでもなく(それは「社会性」を「人間の現実」より上位のこととして観てしまうことに繋がるのではないかと。娯楽系の作品にはありがちですが。「いい人なんだけど〇〇〇」のような物言いも、この2つを同じ土俵で見てしまっているように思えて好きではありません。社会生活を営む上での規範と、人間性、とを順位づけて考えてはいけないでしょうね。)、ただ見続けること。





そんなことを思い出したのは、最近、こういう小説を読んだからでしょうか。

吉村萬壱「死者にこそふさわしいその場所」





帯にはこうあります。

 折口山に暮らすのは……

 ・セックスの回数を記録する愛人

 ・徘徊癖のある妻を介護する老人

 ・アパートのドアが開きっぱなしの裸男

 ・朝どうしても起きられなくなってしまった女

 ・困った人の面倒を見たがる聖職者


 どうしようもない人たちね

(文:久坂夕爾)


2021年11月17日水曜日

第5回尾崎放哉賞に関するお知らせ

第5回尾崎放哉賞ですが、

締め切りが12月10日に延期となりました。

まだ間に合いますので、ぜひご応募ください。



尾崎放哉賞ホームページはこちらから

http://www.hosai-seiho.net/


2021年11月13日土曜日

青穂42号が発行されました

 







青穂42号が発行されました。
画像は、表紙(戸田勝画)、青穂抄(平岡久美子選)、色紙(荻原井泉水)

目次より本号の内容
・「青穂」2021年度 総会結果報告
・追悼 高村昌慶様
・同人作品
・私の感銘句
・青穂の窓(小山貴子選)
・エッセイ・評論
 記憶に残る俳人・俳句3 伊藤清雄
 私と自由律俳句3    楽遊原
 草木と遊ぶ「ハルジオン」と「ヒメジョオン」 奥野立日十
 風呂焚き        薄井啓司
 「三好利幸自由律俳句集Ⅴ」を味わう 福田 和宏
 鑑賞「新墾 自選句集」 黒崎渓水
 きむらけんじ「きまぐれ写俳日記38」
・一句鑑賞
・句会報
・そのほか
 同人新刊案内、お知らせ、同人情報、編集後記
 第5回尾崎放哉賞募集案内

敬称略
(文:久坂夕爾)

2021年10月27日水曜日

第5回尾崎放哉賞 締切は11月30日

尾崎放哉賞ホームページはこちら

http://www.hosai-seiho.net/


一般の部、および高校生の部があります。

高校生の部は投句無料です。



2021年10月4日月曜日

青穂41号より同人新刊案内

 





青穂41号より同人新刊の案内

上:三好利幸 「三好利幸自由律俳句集Ⅴ」
  きやらぼくの会 「年間句集2020」

下:久坂夕爾 個人詩誌「午前」第8号


(文:久坂夕爾)


「自由律俳句と詩人の俳句」より

 

樽見博著「自由律俳句と詩人の俳句」(文芸通信)より、印象に残った部分を抜粋しておきます。

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ただ、放浪漂泊といっても、放哉は死に場所を見つけるべくあてどない放浪を強いられたのに対し、山頭火は放浪そのものを求めたというか、甘えの極致に近く楽しんでいる風がある。その差は果てしなく大きいだろう。


放哉の表現は、もっぱら自己を掘り下げようとするものであり、(略)それに対して山頭火は、(略)むしろ、自己に沈潜するよりも、自己を他者に向かって開こうとしている。

 ※「俳句」第44巻7号 坪内稔典「山頭火俳句の特色ー自己を開くリズム」引用部分


このこと(※注)は自由律俳句の成長途上の一つの屈折であり、井泉水の印象主義的象徴主義運動が東洋的な心境主義的主観主義とでも言うべきものに向かう屈折でもあった。「詩」の圏内に入りかけた自由律俳句が(二行詩という名まで進んだ俳句が)又、俳句それ自身の世界を「詩」の世界と区別し始めたのであった。

 ※伊澤元美著「現代俳句の流れ」(昭和31年河出新書)引用部分

 ※注 俳句を二行詩と捉え『国民詩』とする荻原井泉水の構想が頓挫したこと(久坂が本文前段より要約)

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放哉と山頭火の違いは、私自身が何となく感じていたことを裏付けしてくれるような解釈でした。また、ゲーテに影響をうけたはずの井泉水の「層雲」が、なぜ放哉・山頭火に代表される主観主義的な流れを生んだのだろうか、何かきっかけがあったのだろうか、という、私の以前からの疑問への一つの回答例があったこと、面白く読みました。

そのほか印象に残った記事は、松尾あつゆき、大橋裸木、中塚一碧楼、横山林二、ルビ俳句のこと、詩人の作る俳句が意外にオーソドックスなものが多いことなど。


最後に、もう少しだけ引用。筆者によるまえがきより。

俳句という文学行為は「俳句とは何か」と問い続けるもので、その正解のない解答を得るために、個々が様々な試行を繰り返す必要がある。(略)俳句に関わる者は、五七五定型、季語、切れ字の効用に凭れかかることなく、考え続けなくてはいけない。自由律俳人たちの懸命な足跡はその意味を教えてくれるのである。


自由律俳句は、もともと文学志向の強い俳句形式だったわけです。

(文:久坂夕爾)


2021年9月11日土曜日

家木松郎句抄

頭にそそぐ空美しい機械となり

声小さき標本の一尾を海へはなつ

鹿点るてっぺん華麗な禁漁区

未明の杉少女指よりインキ流し

砂うごく月の柩を埋めるため

雲の市場卵売り卵降らせ

鏡の底の詩人と話す少女の首

背と背の朝鳥類の風とおす

首しまる兎に長い風林


旅行記に未婚の鳥をさがす女

吹奏楽顎紐の雪に消える兵士ら

雪を背に走れば走れば髭愛し

弟の暗い肩まで楽器沈む

月のぐるり四つ脚で走れガラスの男

靴の先美し教師ら時計嗅ぎ

掘りすすむ雪のなかまで夕日の犬

肺を嗅ぐ汽船のような白夜過ごし

ガラス玉の光線は黄なり母の背よ

蛇をころし庭掘るまぶしい他人の足

咳ひろがる葦間の太陽滑車にのせ

音楽の木立ならべる円い草原

くら闇に裸木ながし膝まで水

函のなかに風の記号の甲虫

雪虫殖やし僧ら敗走す月の村

肺のなかに枯草の点り母とびたつ

神々の額ぞ白し村境

水銀降る森の外れの料理番

風が消え村が消え一月の細身の鴉

風の国の夜行鳥獣発熱せり

からだじゅうの暗がり探せば流るる水

濃霧警報日本海で顔洗う



家木松郎略歴

(戦後俳句作家シリーズ32 家木松郎句集/海程戦後俳句の会 より抜粋)

明治28年生まれ

昭和25年 「層雲」同人

昭和36年 句集「発熱」

昭和40年 「海程」同人

昭和46年 句集「前景」

昭和52年 家木松郎句集(戦後俳句作家シリーズ32)




状況を描くのではなく、状況の核を描くことで、ときに繊細でときに清冽な絵画のような印象を与えます。


未明の杉少女指よりインキ流し

鏡の底の詩人と話す少女の首

 未明の暗闇に浮かぶインキのような杉が、まさに少女の指から流れ出す様子。

 鏡の底にいる(実体のない)「詩人」と話す少女。「顔」ではなく「首」としたリアルな実体観との対比。

 もっとも絵画的な印象を持った句です。

背と背の朝鳥類の風とおす

 背と背、という限定的な光景が、「鳥類」ということばで一気に拡がるすがすがしさがあります。

声小さき標本の一尾を海へはなつ

 魚の標本を海にかえしてあげる場面でしょうか。ちいさな魚のちいさな声は、生きていた時の海に還って、ちいさいながらすべらかな声を発するように思うのです。情感豊かな一句。

砂うごく月の柩を埋めるため
 砂浜の月明りが、波打ち際の砂とともに揺れている、と状況を言葉で解釈しようとしてしまうとなんだか陳腐になってしまいますね。砂が静かで確固たる意志を持っているように描かれているところが良いとともに、この句には「時間」が流れているように思えます。



(文:久坂夕爾)


2021年8月10日火曜日

青穂41号が発行されました

 




青穂41号が発行されました

画像は、上から表紙(戸田勝画)、色紙(吉岡禅寺洞)、青穂抄(久光良一選)

目次より本号の内容
・第8回青穂大会受賞作品
・八年目を迎えて(代表 小山貴子)
・青穂2021年度 総会(書面決議)議事
・新同人紹介
・同人作品
・私の感銘句
・青穂の窓(吉多紀彦選)
・青穂第一句集互選互評⑫
・エッセイ・評論
 記憶に残る俳人・俳句
   いまきいれ尚夫 奥野立日十
 私と自由律俳句
   鈴木しのぶ 島田茶々
 青穂第一句集 互選互評⑫ 追補
 終戦75周年 渡辺敏正
 きまぐれ写俳日記36 きむらけんじ
・一句鑑賞
・句会報
・そのほか
 同人新刊案内、お知らせ、同人情報、編集後記

敬称略
(文:久坂夕爾)

2021年7月15日木曜日

ことばというもの

 ことばというのは、どうしても「日々、もしくは、その場その場で消費されるもの」という側面を持っていて(むしろこちらの側面のほうが大きいのですけれど。古代においてはまた違ったのではないか、なあんて想像すると素人ながらちょっと楽しいです。)、これに対する疑問やとまどいを表明する詩歌も少なからずあります。

 コミュニケーションや社会への合目的性をはなれ、「ことば」そのものについて書かれた有名な詩にこういうものがありました。


言葉なんかおぼえるんじゃなかった

言葉のない世界

意味が意味にならない世界に生きてたら

どんなによかったか


あなたが美しい言葉に復讐されても

そいつは ぼくとは無関係だ

きみが静かな意味に血を流したところで

そいつも無関係だ


あなたのやさしい眼のなかにある涙

きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦

ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら

ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう


あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか

きみの一滴の血に この世界の夕暮れの

ふるえるような夕焼けのひびきがあるか


言葉なんかおぼえるんじゃなかった

日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで

ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる

ぼくはきみの血のなかにたったひとりでかえってくる


 田村隆一「帰途」


 ある小説家が、「言葉なんか読みたくない時期がある」とどこかで書いていて、私とは多分「読みたくない理由」は違うでしょうが、私にもそういう時期があると共感したことがあります。美術館で絵を見ていた時、ここに言葉がなくてとてもほっとした、また、言葉を使わない絵画というジャンルが(創作者として)とてもうらやましい、と思ったことが何度かあります。

 不純物だらけ・イメージの固着化(俳句の季語というのは良くも悪くもそれを利用したもののように思えます)ということばの性質を「前提として存在する」と考えている方とそうでない方の考え方や作品には当然違いがでてくると思っています。そういうものでもあり、深刻な問題でもあり。

自分の書いている文章も詩句も、特に観念的な言い回しをしなければならない場合、本当に私が感じたことなのか、乖離していないか、心配になることがありますね。


(文:久坂夕爾)

2021年6月28日月曜日

山頭火ふるさと館

 

山口県防府市の山頭火ふるさと館

山頭火ふるさと館


第4回山頭火ふるさと館自由律俳句大会 作品募集開始しているようです。

(文:久坂夕爾)