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2020年6月28日日曜日

住宅顕信句評


Webサイト「詩客 詩歌梁山泊」に住宅顕信の句評が載っていました。

俳句評 住宅顕信句集「未完成」(春陽堂)  鈴木 康太

(文:久坂夕爾)



金子兜太・田村隆一の対談

ようやく読んだ、河出書房新社「田村隆一 20世紀詩人の肖像」より
金子兜太・田村隆一の対談の中で、興味のひかれた部分を。

(田村)
ただ、俳句の持っている僕の言うほんとうの意味での即興性というのは、「私」をこえたところにあるんだから。「私」をこえた表現というものを支える俳句の知的な凄みというのかな。そういったものがもっとゆるやかな広がりを持てれば、僕はいいとおもうんですよ。
(ー略ー)
(金子)
僕は日常性を強調しているんです。……そうなんですよ、たしかに。そこを土台に自在に飛翔すれば、言霊とか、幻想とか、想像の世界とか、そういうものを迎え入れることもできる。


(田村)
言葉自体が大きな喩ですからね。言葉というのは比喩なんですよ。(略)季語はその大きな喩のなかの喩を機能させるための喩であって、要するに僕たちは暗喩をいろいろ使う、それはいろんな形で使う、詩人というものは。しかし、実はただ暗喩を使うために使っているんじゃなくて、大いなる直喩を発見したいために暗喩を使っているんだ、と言ったことがあるんです。
(ー略ー)
(金子)
それは同感だな。若い連中は言語論の入門書なんかを読んでその受け売りをやるんだな。言葉の一人歩きだけやるんですよ。


金子兜太のほうが聞き役に回ることが多い、という印象を受けましたが、
これは座談会ですので、たぶん編集の仕方によるのでしょう。
「季語は喩である」「季語は固定化されたルールではなく、社会や地域や時代の変化によって変わっていくもので、俳句の世界を広げる入口のようなもの」という部分は、やはりそうですよね、という感想。

荻原井泉水の「詩と人生 自然と自己と自由と」に、
芭蕉の「物と我と二つになりて其情誠にいたらず、私意のなす作意なり」に関しての記述がありますが、上記座談会でも「物」と「我」との関係について話題に上っていました。
厳密に本意を追うと矛盾や飛躍に見えるところもあるのですが、思っていることがフラットに出て来るところが座談会の面白さですね。

(文:久坂夕爾)

2020年6月12日金曜日

本誌からのお知らせなど





本誌36号からのお知らせを抜粋して掲載します。

上:まつやま山頭火倶楽部 会報「鉢の子」
中:同人新刊 安門優自由律俳句集「すべて時のなか」
下:南郷庵友の会「放哉」

(文:久坂夕爾)


2020年5月24日日曜日

第3回尾崎放哉賞発表






第3回尾崎放哉賞が発表されました。

尾崎放哉大賞
 ネギ切る音がまっすぐな雨になる 井上知子
春陽堂賞
 古写真の中に整っている家族   黒瀬文子
高校生の部 最優秀賞
 砂時計の中蜥蜴の鱗が落ちる   熊谷京香

※画像をクリックすると拡大します。


個人的な印象ですみませんが、
一般の部ではなく高校生の部に、繊細さとスケールの大きさを兼ねたものがあり、うれしいですね。。

全入賞句は下記をクリックすると見ることができます。



ともあれ、皆さまおめでとうございます。

 




2020年5月10日日曜日




青穂36号が発行されました
画像は、表紙、青穂抄(南家歌也子選)。

ほか、

同人作品
私の感銘句
追悼 座間の俳人 北田傀子
一句鑑賞
青穂の窓(小山貴子選)
「青穂第一句集互選互評⑤⑥」
句会報

エッセイ・評論に
小山貴子 「井泉水と放哉-放哉を葬る前後ー(1)」
きむらけんじ「きまぐれ写俳日記32」

第7回青穂大会は中止となりました。

尾崎放哉賞関連は、改めて今月中にアップします



2020年4月25日土曜日

昼顔


ヒルガオ立ち枯れ触れてはならぬ 小山貴子


昼顔順列 吉原幸子

昼顔は女だ
わたしは女だ
女は昼顔だ
昼顔はあなただ
あなたは女だ
わたしは昼顔だ
女はあなただ
あなたは昼顔だ
女はわたしだ
昼顔はわたしだ
わたしはあなただ
あなたはわたしだ

(以下「NOTE」より)
この時期、私は変った。かつて「詩は排泄だ」とうそぶいてゐた私も、やっと世界をそのまま呑み下し、完全消化することを覚えた。私の胃が健康になったのか、それとも食べすぎなくなったのか。――徐々に、ことばは私から遠ざかりつつある。私はそれを悲しんでゐない。

詩集「昼顔」所収


(文:久坂夕爾)



2020年4月14日火曜日

コロナウイルス(COVID-19)に関し、
商売されている方は本当に胃の痛い思いだと思います。
サラリーマンだって、いつその会社の受注が激減するかわかりません。

こんな時だからこそ、カミュの「ペスト」を読もう、
という声がSNSで聞こえてきました。
(私は読んだことがありませんが)

世界の歴史とは侵略の歴史なのだと誰かが言っていましたが、
十分な医療体制を持たない、近代化を拒否している民族たちは、
先進国から持ち込まれたこういうウイルスで消滅していったのでしょうか、と
そんなことを考えています。

*****

劇作家の別役実さんが亡くなられました。
「不条理劇」などと月並みな形容で新聞には紹介されていましたが、
では、「不条理」とは何でしょうね。

演劇は残念ながら見たことはありませんでしたが、
ラジオドラマにもなったらしい童話三部作「さびしいおさかな」、
小室等作曲の「雨が空から降れば」が好きでした。

(文:久坂夕爾)




2020年3月28日土曜日

竹田の子守唄

勤めしょうとも子守はいやよ お主(しゅ)にゃ叱られ子にゃせがまれて 間に無き名を立てらるる

山家鳥虫歌にこんな歌がありましたが、
子守唄(正確には「守り子」歌ですか)にはこの手の「守り子」の歌が結構
あったらしく、そのひとつに竹田の子守唄があります。

フォークグループ「赤い鳥」が歌った「竹田の子守唄」
https://youtu.be/1IeuDyR3ax4

守りもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし
盆がきたとて なにうれしかろ 帷子(かたびら)はなし 帯はなし
この子よう泣く 守りをばいじる 守りも一日 やせるやら
はよもいきたや この在所(ざいしょ)越えて むこうに見えるは 親のうち


この背景にあるのは、
子守の辛さももちろんあるのですが、
口減らしに奉公に出された子守娘の悲哀です。

私は、この哀切なメロディが好きで、
よく口ずさんでいたものです。
原詞は、もっとあけすけで好きですね。
寺の坊さん、のくだりは「赤い鳥」の歌詞ではカットされていますが、
このカットは、自然に歌い伝わるものと、流行歌(テレビソング)との役割の違い
みたいなものを感じました。

1385hiroさんが歌う、原曲と「赤い鳥」バージョン
https://youtu.be/Uwd-_Rsh5WQ

この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら
ドシタイコリャ 聞こえたか

寺の坊さん根性が悪い
守子いなして 門しめる
ドシタイコリャ 聞こえたか

守が憎いとて 破れ傘着せて
可愛いわが子に 雨やかかる
ドシタイコリャ 聞こえたか

久世の大根飯 吉祥の菜飯
またも竹田の もんば飯
ドシタイコリャ 聞こえたか

盆が来たとて 正月来たて
難儀な親持ちゃ 嬉しない
ドシタイコリャ 聞こえたか

はよもいきたい あの在所(ざいしょ)越えて むこうに見えるは 親のうち
ドシタイコリャ 聞こえたか


赤い鳥の竹田の子守唄は、一時期「放送禁止歌」(業界の自主規制)となっていました。
ここら辺の事情は、森達也さんが書いていて、昔読んだことがあります。
自主規制のキーワードは猥褻、差別的用語(もしくは差別をにおわす言葉)、政治的思惑あたり。

愛知トリエンナーレや憲法九条を題材にした俳句に関するごたごたは
最近の出来事ですが、基本的にはその延長にあるのでしょう。
(この2つは、「上」に立つ人のつまらない個人的思惑にしか感じませんが)、
良くも悪くも、人の世とはつくづくそういうものなのでしょう。
「倫理」の儚さ、のようなもの。


(文:久坂夕爾)

2020年3月15日日曜日

枇杷男の俳句と放哉の「入庵日記」と

ネットでこんなエッセイを見つけました。

水耀通信根本啓子
枇杷男の俳句と放哉の「入庵日記」と

こういうエッセイを書きたいですねえ。私には無理ですが。

(文:久坂夕爾)



2020年3月8日日曜日

俳誌「む」復刊1号



加藤邪呑氏より俳誌「む」復刊1号(通巻51号)が届きました。
「海程」(金子兜太主宰)仙台支部の俳誌だったものが、
独立した「む」句会として復刊したもようです。


加藤氏の作品よりいくつか。

ゴッホへ大脱走するひまわり
青い無限は白鳥の落款
来世は雪の遠近法である
月山捲れば白夜
海市の空キリン突き刺さっているよ

こういう句は、イメージしたときに、自分の中で何かが立ち上がってくるかどうか、
が鍵だと思っています。
「意味」はあくまでも読者が規定するもの。
作者が読者に直接提示するものではない、という考え方には個人的に賛同します。


月山捲れば白夜

「捲れば」を、まるでトランプのカードの表裏をひっくり返すようなイメージをすると、
月山を通して、世界の巨きさと静けさを感じます。
「捲ると〇〇になる」のではなく、
あらかじめ存在するものが「捲ったことで見える」のではないかと。
「ば」は通常、
・因果(~した結果~になる)
・仮定(~するとすれば~になる)
日常会話的には、2つの用法を何気なく使い分けていますが、
ここでは後者ではないかと思う、ということです。

(文:久坂夕爾)

2020年3月1日日曜日

お知らせです。

下記、NHK京都の講座は、新型肺炎流行に配慮し、中止となりました。



2020年2月22日土曜日

放哉か 山頭火か ノラ猫か?

NHK文化センター京都で、自由律俳句に関する講座が、2020年3月28日に行われます。

作家の嵐山光三郎氏が放哉・山頭火を語ります。
また、後半は青穂の小山代表と自由律俳句の選評を。

詳細は、ここをクリック

チラシも載せておきますので、
興味のある方はどうぞ。画像をクリックすると拡大します。



2020年2月16日日曜日

尾崎放哉賞、選考進む!

皆様からお預かりした貴重な作品群、その重みに選考スタッフ一同、つぶれそうです。
とにかく多くのご応募、感謝!です。感謝!感謝!!の言葉しかありません。
選句にあたって、何度も何度も読み返しています。一句ごとに、(作者名は伏せて選句しますので選句の時はどなたの句かわかりません)作者の句作のシーンが思い浮かんで、そしてまた、ああ、いい表現だな、これは類句がなかったかな、放哉のこの句の雰囲気に似てるな、などなど、止まってしまうことも多く、なかなか進みません。
出句は最大のご支援であり、みなさま、自由律俳句、もしくは尾崎放哉を愛する同志と思っています。生半可な気持ちで選句してはなりません。
そして今日もまた、深夜にペンを持ったまま、崩れ去るように力尽きるように、眠りにつくのでした。

(文:黒崎渓水)



2020年2月11日火曜日




青穂35号が発行されました
画像は、表紙、青穂抄(中村友乙選)、巣山鳴雨色紙。

ほか、

同人作品
私の感銘句
一句鑑賞
青穂の窓(吉多紀彦選)
「青穂第一句集互選互評③④」
句会報
追悼 浜松の俳人 錦織祥山

エッセイ・評論に
奥野立日十「二〇一八 きやらぼく」鑑賞
久坂夕爾「詩はどこにあるのか②」
福田和宏「私と西遊記」
きむらけんじ「きまぐれ写俳日記31」

※敬称略
 自由律俳句誌「青穂」は、次号より季刊となります。
 次の発行は五月を予定しています。

(文:久坂夕爾)

2020年2月8日土曜日

山家鳥虫歌(近世諸国民謡集)より

校注 浅野建二


九 こなた思へば千里も一里 逢はず戻れば一里が千里

相愛する男女の恋情を訴えたもの。元来、『李白詩集』巻六や、蘇東坡の「近ク別レテ容(かたち)ヲ改メズ、遠ク別レテ涕(なみだ)胸ヲ霑(うるお)ス、咫尺(しせき)相見ザレバ実ニ千里ト同ジ」の詩情に関連を有するもので、「禅林句集」や「天草版金句集」「日葡辞書」などにも散見する「咫尺千里」という成句が一般に流布するうちに、庶民的な恋愛歌謡に化したものと思われる。中世・近世の諸歌謡から現代歌謡に至るまで、きわめて累計歌の多い一首。

四九 蝶よ胡蝶よ菜の葉にとまれ とまりゃ名がたつ浮名たつ

上句は江戸初期の流行小歌か。西山宗因の句に「世の中よ蝶々とまれかくもあれ」。また明治「小学唱歌集」の「蝶々蝶々 菜の葉にとまれ 菜の葉に飽いたら 桜にとまれ」は、幕末・明治期の国学者、野村秋足(あきたり)の作と伝う。「止まる」「泊る」掛詞で、「とまりゃ」は「一夜共に寝ると」の意。上句と下句の掛け合い。

五一 君は八千代にいはふね神の あらぬかぎりは朽ちもせん

七八 こなた百までわしゃ九十九まで 髪に白髪の生ゆるまで

一三七 勤めしょうとも子守はいやよ お主(しゅ)にゃ叱られ子にゃせがまれて 間に無き名を立てらるる

種彦本、「志摩」五首の内の最後に掲げる。前出の一三三番(伊勢)に同じく七七七七・七五形で各地に多い子守娘のつらさをのべたもの。「無き名」は無実の評判。いわゆる「子守くどき」の一種。例えば岐阜地方の子守唄「千両くれても守奉公いやじゃ、親にゃ叱られ子にせめられて、人に楽じゃと思われて、何が楽じゃな夜昼追んで、朝は七つ(午前四時)に起こされて」、三重県員弁(いなべ)郡子守唄「お主に叱られ、子に責められて、どこで立つとやら、わしが身は」など。

一六三 都まさりの浅草上野 花の春風音冴える

一首は。京都の賑わいにもまさる江戸の浅草や上野の花見風景。そよぐ春風の音まで澄み切った感じという。芭蕉の名句「花の雲鐘は上野か浅草か」の発想を踏まえた、江戸の新民謡調ともいうべきか。


人情、リズム、機知の勝った言葉遊び、世俗的教訓、祝い唄。
(九)のように、言葉が独り歩きして形骸化してしまったようなものから、(一三七)のような、非常にストレートで逆に新鮮に見える心情まで。

私などは、現代の流行歌、ポピュラーソングと基本的に変わらない印象を受けるのですが、どうでしょうか。
スマップの歌に、「ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン」という歌詞がありましたが、ふと思い浮かべ、ここに並べても違和感がないな、と思いました。現代風で小綺麗ですが、機知が勝っているところなどは。


そのほか、いくつか興味をひかれたことを。

本書は、自序にこう記されているようです。
(前略)世の風俗として、花に啼く鶯、水に住む蛙の声いずれか哥(うた)を詠まざらんと古事に有るよしして、山家鳥虫歌(さんかちょうちゅうか)と名付けて、(後略)
。。。。どこかで読んだことのある文章です。
もうひとつ。
集中、一番多いのが、七七七五形(いわゆる小唄調)で78%。次が七五七五形(今様?私には不勉強でよくわかりませんが)。次が、五七五七五形。
七音が先行していることが多いのは、やはりというか、面白い事実です。

(文:久坂夕爾)