自由律俳句協会主催、「第1回自由律俳句大賞」のお知らせが入ってきました。
詳しい募集要項などは、下記をご覧ください。
青穂51号より
自由律俳句協会主催、「第1回自由律俳句大賞」のお知らせが入ってきました。
詳しい募集要項などは、下記をご覧ください。
青穂51号が発行されました。
青穂本誌での企画記事「記憶に残る俳人・俳句」。
同人各自が紹介する、自由律俳句・俳人を転載します。
・市川一男(1901~?)
人に逢いたくない日の自分の足あたためてやる
さびしさ一つこらえては透明なうろこ一枚はやし
まっくらやみにもつれて糸がひとかたまり
・まつもとかずや(1928~?)
だまってだまって、このいしをあちらへのけるこうい
ちちはつねに、おおきななみだをためている
不況がきびしく、下むいてとぐはさみのむこうに家族
・尾崎善七(1907~1938)
まずしさ軒に夕月一つ火をたく
月の明るさ児を負うてゆく
やなぎゆれる冬あおぞらの子を抱いて纏足のおんな
人間が人間と血を流し今日も空がすっきり澄んでいる
私が戦死した夢であったりして暁の星一つまたたく
・渡野邉朴愁(わたのべぼくしゅう)(1927~2016)
裸いとし人間なんとたくさんの傷あとを持ち
尾骶骨にいつもあるおもい昼月欠けて浮く
地球剥ぐと宙へひらひらいちまいの四季
寒さ音にして湖心さす舟
枯野の嗅覚火にすると春が匂う
・塩地キミヱ(1936~2017)
はじめて踏んだお百度の足を洗う
生きる意味求めて七十九歳暑気中り
丁寧に生きたしるしの固いペンだこ
嫌われてもいい清廉でいたい女の秒針
・佐瀬茶楽(1905~1989)
畑は菜の花にうもれる満月
と、ゆらぎ海は黄金の朝暾
婆がわらうつ音のするしぐれ
おもてへでてうちわの軽さ持っている
子が子をつれてくるお正月
・岡野宵火(おかのしょうか)(1916~1951)
バス満員で下ってしまふと秋の高原を残ってゐる人たち
逢ふてさえをれば、の二人で秋が散って散って
何かひっかかる句(人)、惹かれる句(人)があれば幸いです。
いい企画ですよね。私が注目したのは渡野邉朴愁。
(文:久坂夕爾)
第七回尾崎放哉賞の応募締切が11月30日に迫っています。
是非ご応募ください。
※ご注意
ホームページが、第六回までのものと変更になっていますので、ご注意ください。
ブックマークなどに入れている方は、お手数ですが、新たにお気に入り登録することをお勧めします。
また、今回高校生の方の応募方法に変更があります。
※メールでのエクセル(横書き)添付必須
詳しくは、上記ホームページで確認をお願いします。
◆過去の尾崎放哉賞大賞受賞作品◆
月の匂いの石に坐る 藤田 踏青
ひまわり咲いて疎遠の鍵を外す 増田 眞寿子
ネギ切る音がまっすぐな雨になる 井上 知子
だんだん空が大きくなる坂を上る 遠藤 多満
蝉時雨浴びて秘密基地の入り口 砂狐
母の内にあるダムの静けさ 田中 佳
(文:久坂夕爾)
青穂50号が発行されました。
第七回尾崎放哉賞の募集受付中です。
※ご注意
ホームページが、第六回までのものと変更になっていますので、ご注意ください。
ブックマークなどに入れている方は、お手数ですが、ページの差し替えをお願いします。
また、今回高校生の方の応募方法に変更があります。
上記ホームページで確認をお願いします。
(文:久坂夕爾)
青穂49号の同人の句よりいくつか紹介します。
例によって、私の句評は参考程度に。
蝉しぐれ唖の両手目まぐるし 楽遊原
「蝉しぐれ」と、続く「唖(唖者)」は、初見ではかなりの飛躍に思えるかもしれませんが、案外近いところにいます。というのは、「音」「光」は、それが元々ない場面(静寂、闇など)だと目立つのですが、それだけが過剰に存在すると「音」も「光」も知覚できなくなる。芭蕉の句の、蝉しぐれを「しずけさ」と感じる所以のように。発語が困難な方(しかも多分聴覚は正常な方)の表面上の無音と、手話をする両手(つまりその人の思考や感情)の切迫感を対照的に表現しています。個人的には、「し」で終わると文語調になって、両手の躍動感が殺されてしまったのではないか、自由律だからもっと語尾も自由に口語らしくしたほうが、と少し気になりましたが。
花首切られ俄かに人の華となる 一の橋世京
「俄かに」と接続されると、首を切られた瞬間が読み手の脳裏に残ったままの状態で、次の節(人の華)の意味を拾うことになります。切り花が人の心を楽しませる、という、それだけの意味を伝えるだけでしたら、一般論だけで作者自身がいない凡庸な句になってしまうのですが、そこに、「(花屋の手によって)首を切る・切られる」という行為の残像を見せたことで面白い作品になったと思います。
さくらさくら隠した鬼がでてきて騒ぐ 高木架京
「隠れていた」ではなく、「隠した」。この句にほのかに「批評」(自分に向けてなのか他者に向けてなのかはわかりません)を感じるのは、「隠した」のは、「鬼」とはいったい誰だろう、と考えさせられる部分があるからでしょうか。さくらの花かげからぞろぞろ鬼がでてきて、そこには本当は鬼がいるのだと不意に気付いてしまう恐ろしさ。
小手毬転がってゆく闇の中 小山貴子
小手毬の花の様子をうまく捉えた句。闇に転がすことで、自分の預かり知らないところで何かが連綿と続いているという、えもいわれぬ感覚を呼び覚まします。
あした着てゆく喪服ひろげて欠伸 伊藤人美
人にはいろいろな感情がありますから、『喪服』という題材=『悲しみ・悼み』とは限らず、おそらく、さほど関係の深くない人の葬儀前日の、もしくは葬儀続きで疲弊していて、あまり積極的には行く気になれない心中を捉えています。ありのままの気取らない日常を捉えていて、俳句は「雑」(あらゆる瞬間)の詩でもあります。捉えどころがいい。
妻をほめるふわり海月が寄ってくる 奥野立日十
つけ睫毛ケースに入れて故郷へ帰った きむらけんじ
菜の花は海に溺れる無限階段 加藤邪呑
(文:久坂夕爾)
たまに絵本を買います。
「あおのじかん」イザベル・シムレール文/絵 石津ちひろ訳 岩波書店
説教臭い・道徳本のような絵本は嫌いなのですが(笑)、こういう絵本は大好物です。
日暮れから夜にかけての、さまざまな「あお」色の生き物たちの物語。
世界を見つめる優しい「目」がここにはあります。
裏表紙には、いろいろな「あお」いろが並ぶ。
こなゆきいろ、マシュマロいろ、ウサギのしっぽいろ、あかちゃんのぼうしのいろ、みずたまりいろ、リボンのいろ、ゆめのいろ、ふじいろ、おはじきのいろ、みずぎのいろ、うんどうぐつのいろ、くもりぞらのいろ、マフラーのいろ、うんどうかいのそらのいろ、カモのはねいろ、ラベンダーいろ、クジャクのはねいろ、はればれとしたこころのいろ、るりいろ、にじをまぜたいろ、たいせつなボタンのいろ、インクいろ、ぶどういろ、まほうのいしのいろ、ベレーぼうのいろ、りんどういろ、はかまのいろ、あいいろ、そらとぶえんばんのいろ、うちゅうのいろ、ふかいうみのいろ、まよなかのそらのいろ。
(本文から)
おひさまが しずみ
よるが やってくるまでの ひととき
あたりは あおい いろに そまる
━━━それが あおの じかん
~~~~~~~~~(略)~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ふかみを おびた あおい ベールに おおわれて
シロナガスクジラが ほわーっと おおきな しんこきゅう
~~~~~~~~~(略)~~~~~~~~~~~~~~~~~~
すべての あおい いきものたちを
よるの やみが そっと やさしく つつみこむ
(文:久坂夕爾)
青穂49号が発行されました。
あらためて、の紹介ですが、「青穂」ではTwitter(ツイッター)もやってます。
そのTwitterにて、ならドットFMの「俳句で漫歩」コーナーから転載する形で、自由律俳人を紹介する記事を始めました。
「俳句で漫歩」は、青穂の小山代表が、自由律俳句に馴染みのない方でも親しみやすい句を紹介・説明するコーナーです。
最近Twitterで紹介されたのは以下の俳人。
・荻原桂子
・滝井折柴
・安斎桜磈子(あんざい おうかいし)
・横山林二
下の青字をクリックすると、それぞれTwitter、Youtubeのページにとびます。(それぞれ、アカウントのない方は登録が必要です)
見逃しのないよう、是非フォローしてみてください。このページ右側のスリットにもリンクを張りました。
ならどっとFMの「俳句で漫歩」はyoutubeにもあります。興味のある方はお気に入り登録してみてください。最新のアップは6月27日。
(文:久坂夕爾)
青穂48号が発行されました。
先月の目の手術による不快感・不調がようやくおさまりつつあります。
ひと頃話題になった映画「ドライブ・マイ・カー」(監督:濱口竜介、脚本:大江崇允)をamazonプライムでようやく見る。いい映画でした。
本筋は妻を失った男の物語なのですが、そこに、チェーホフの「ワーニャ叔父さん」、亡き妻がベッドでつぶやいた物語(前世がヤツメウナギの少女のエピソード)が絡んできます。異なる物語が平行するさまは、ああやっぱりこれは村上春樹だ、と思わせました。
特に車の中の描写がよかった。専属のドライバーが後部座席の主人公を目だけで追う姿、夫である自分でさえ知らない、妻の物語の続きを語る青年の顔、たばこの灰を飛ばすためにサンルーフにのばした二つの手。
実は、「ワーニャ叔父さん」は、若かったころの私にはとてもわかりにくい話だったのです。なぜワーニャ叔父さんはピストルなんて持ち出して騒ぎ、あまつさえ自殺まで考えたのだろう、そこがよくわからず、登場人物の心情にうまくついていくことができずに投げ出した記憶があります。映画のあと再度読み直したのですが、今度は心情を理解できたと思います。昔わからなかったものを再読したとき、私はいったい今まで何を読んでいたのだろう、と、愕然とすることは時折ありますよね。最近では井筒俊彦の「意識と本質」など。
チェーホフを「余白の多い作家」とどこかの評論家が言っていたのを思い起こします。そして、村上春樹も(特に短編は)余白の多い、悪く言えばほのめかしの多い作家です。(「象の消滅」なんて面白くて好きですけどね。)
ところで、「ドライブ・マイ・カー」の3つの物語のなかで、現実の不可解さ・やるせなさを強烈に私に伝えてきたのは、完全にフィクションであるヤツメウナギの少女のエピソードでした。また「ドライブ・マイ・カー」はビートルズの曲名だと思いますが、同じくビートルズの曲名が題名になっているかつ映画にもなったものに「君の鳥はうたえる」(and your bird can sing)という小説があります。佐藤泰志。こういう小説が書きたかったと思わせるほど「海炭市叙景」はいい短編でした。
(文:久坂夕爾)